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カサブランカにて



 父が死んでから、もう随分経つ。今年が十三回忌だったから、実際、かなりの時が流れたことになる。

 生前の父から授かったものがいかに大きかったかを、改めて思う。読書、歴史、音楽、諧謔(かいぎゃく)という哲学、文章を書くこと。海の向こうの海外という世界。そこが自分の仕事場になりうるという、可能性の示唆。そして、人生を楽しむということ。

 映画カサブランカを最初に見たのは10代末。高3か浪人か、或いは大学に入ってすぐのころか。いずれにせよ、当時自分はまだ実家にいて、NHKのBSか何かで見た。隣に親父もいて、時々いろんな蘊蓄(うんちく)をたれていたことを思い出す。警察長官のルイ・ルノーがゴミ箱に投げ捨てたヴィシー水のボトルは、彼のヴィシー政権に対する反逆の気持ちを暗喩しているのだとか、云々・・・。

 自分が、次に映画カサブランカを見たのは、20代の後半にスペイン語トレーニーでバルセロナに派遣されていた時。街のビデオ屋でスペイン語版のカサブランカのVHSテープを買って何度も見た。ご存じの方も多いと思うが、Casa Blancaはスペイン語で、白い家という意味である。

 街の名前もスペイン語だし、海を挟んでスペインの対岸にもあるカサブランカは、当然スペインの影響下にあるものだと、当時ぼんやり思っていた。実際、セウタ、メリリャというモロッコ側の小さなエリアは、スペイン領だったりする。なのに何故、第二次世界大戦当時のカサブランカが、フランスの支配下(正確に言えば、ナチス傀儡のヴィシー政権下)にあるのかと、映画を見ながら、当時のスペインびいきの立場で、いぶかしく、残念に思ったことを覚えている。

 映画カサブランカをDVDで買って見直したのは、コロナ禍で東京にいた頃だったか。改めていい映画だと思った。

 パリに来て、モロッコを担当することになっていながら、現地入りするまでに実に1年半を要してしまった。昨年12月に出張を計画していたのだが、出張間際になって、コロナの新株オミクロンが爆発的な勢いで世界に広がり、自分がモロッコ入りする2日ぐらい前に、感染拡大防止を理由にモロッコ国境が封鎖され、急遽出張がキャンセルとなってしまった。結局そのままズルズルとこのタイミングまで来てしまったという次第である。

 パリからカサブランカまでは、飛行機で3時間とちょっとだが、なかなか都合の良い時間のフライトがない。なので、カサブランカ入りを日曜午後にして、移動によるロスタイムを少しでも減らすことにした。

 ホテルにチェックインしたのが17時。パリと比べて気温は全然温かく、まだ暫く日も出てそうだったので、少し街を歩いてみることにした。そんな感じで、さてどこにいったもんかと、出かける前にホテルの部屋でネット検索してみると、Rick’s Caféという名前が目に飛び込んできた。

 映画カサブランカに出てくるリックの店の名前は“Café American”で、Rick’s Caféではなかった。でも、このカサブランカの地に、メモリアルでもいいから、あの雰囲気に浸れる場所があるなら是非行ってみたい。カメラを持って、街中を30分ほど歩いて、旧市街の入り口にあるその店まで行ってみた。

 一旦海岸線まで出て、海岸沿いのプロムナードを、ハッサン2世モスクを超えて歩いていった。夕暮れ間際だったが、天気も良く、長く歩いているとうっすら汗をかくぐらいの気温で、辺りには、日曜の夕暮れ時を楽しむモロッコ人の家族連れや若者たちで溢れていた。新興国独特の素朴さと若い活力が、そこにはあった。

 Rick's Caféの予約は取ってなかったが、18時半の開店早々に店に行ってみると、玄関先に、映画と同じようなドアボーイがいて、ディナーかジャスト・ドリンクスかと聞いた。1人でディナーだと答えると、2階席に通してくれた。吹き抜けから見下ろすと、1階のバンドコーナーの脇に、グランドピアノが置かれているのが見えた。“サム、その曲はやめろと言ったはずだ。”の、あのピアノ。もちろん当時のものではないけれど。そもそも、サムのピアノはアップライトだったような気もする。

 映画カサブランカのリックの店は、1階のみだがもっとフロアが広くて、カジノがあり、ビッグバンドも入っていて、壁際にボックス席があって、そこでナチスの将校たちが軍歌を歌っていたような記憶がある。

 Rick's Caféは、それとはかなり違った間取りだったが、映画カサブランカに思いを馳せるには、十分に素敵な場所だった。一人で、ワインのハーフボトルを開けて食事をしていると、映画だけではなく、いろんなことを思い出した。一番感慨深く思ったのは、映画カサブランカの蘊蓄をいろいろとたれていた、親父の存在である。

 親父、ここがリックの店だよ。まさか自分がパリで仕事をすることになって、そこからの出張でカサブランカに来て、ふらっとこの店に立ち寄ることになるなんて、当時は思ってもみなかったけど・・・。ありがとう、親父。こういう人生と、今の自分に繋がるこの世界観を、自分に与えてくれて。

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