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父、逝く




  三月十三日(土)      



 オランダに赴任して9カ月が経ったこの3月、自分は、出張で日本に帰った。東京、名古屋を経て、実家のある神戸の客先を訪問し、支店の人と飲んで家に帰ったのが、この前日の金曜深夜だった。



 たった2晩の実家滞在だったが、その間に近くの厄神にお参りに行って去年のお札やお守りを返し、新しいものを買い求めようと思っていた。日曜にはもう空港に行かなければいけないので、土曜の朝にお参りに行こうと思っていたが、母から、実家近くに住んでいる孫娘(僕の妹の娘)を昼間預かるのでそのピックアップに行ってほしいと言われ、お参りなら、そのついでに妹の家の近くの天神さんに行けばいいと勧められた。



 僕が車で出かけようとすると、父が、俺も一緒に行くと言い出した。その日の夜には妹家族皆が実家に来ることになって、今わざわざ行かなくても、夜には会えるのだが、まあ、それはそれとして、父も、とりあえず妹夫妻の家を覗いて2人の孫の顔を見たいのだろうと思った。



 車で片道20分あるかないかの道中、父は妙に饒舌だった。父ももう68歳だったが、父の同世代の友人や知り合いの多くが、年老いた親の介護で大変なのだとの話しをした。施設に入ると大変にお金がかかり、入ってる本人は機嫌よくやっているようだが、その費用を払い続けている父の同世代は、お金の工面が本当に大変だそうで、あれは本当に気の毒だと父は話した。「だから思うんだ。”親の健康、この資産”ってな。自分たちも健康でいなきゃなと思う。」父がそんなことを話すのは初めてだった。



 今にして思えば、この時の父は、自分が成田に着いた時から、普段と少し様子が違った。自分が日本に入国してすぐの時間を見計らって携帯に電話してきて、神戸にはいつくるんだったか?と聞いたりした。



 妹の家へ向かう車の中で、父はずっと話し続けた。持ち家はどうするつもりか、Yさん(僕の妻)をそろそろ先方両親の近くに住まわせてあげて、単身赴任も考えるべきではないか、自分たちは当分大丈夫だから、まずはそちらを優先して欲しい・・・と、妻の両親の話しについては随分こだわった。僕も、向こうの両親を優先すべきだと思っていたし、これからまだ暫く海外での仕事を続けるつもりだったので、「自分もそう思う。だからうちの両親にはあと十年はピンシャンしておいてもらわないと困る。」というと、父は「うちは、あと二十年は大丈夫だ。」と自信満々にいった。



 夜、いつも自分たちが実家に帰った時にそうしているように、妹家族4人が実家に来て会食となった。これまでなら、ここに自分の家族4人(以前は横浜から、その前はメキシコからの帰郷)と、芦屋の弟家族4人、じじばば含めて14人+犬1匹の大宴会となるのだが、今回は自分も出張であったし、弟家族は3月頭にシンガポールに赴任していったので、いつもより人数少なめの会食だった。  それでも賑やかに食事をしていたが、食事が終わるころから父が体調が悪いと言い出した。すっかり髪が薄くなった頭部には、ぽつぽつと脂汗が出ていた。その割には、体調悪いから締めにおかゆを食う、それすぐ作ってくれと、父は母に細かい注文を付け、だったらそれ以上何も食べずに寝ればいいのにと、母や僕らがあきれるいつものやりとりがあった。 父は、そのおかゆを食べた後、一足先に2階に上がって床に就いた。

三月十四日(日)  昼過ぎの関空発のKLMで僕がオランダに戻る日。母が三宮に車で送ってくれて、そこから空港バスに乗って関空に向かうことになっていた。父は朝から床に伏せたきり。出がけに僕が覗きに行くと、和室に敷いた何組かの布団の一番手前で父は寝ていた。一瞬どこにいるのかわからなかったほど、父の気配は薄く、妙に小さく見えた。こんなていたらくですまん、気をつけて、そういって父は寝床から僕を見送った。親父も年老いたなとは思ったが、この時は、まさか父が不治の病に冒されているとは思っていなかった。 三月十五日(月)  僕はアムスに戻って通常勤務に復帰した。一方の父は相変わらず体調が悪かったらしく、おかしいと思った母が、ただの風邪だといって家で療養してようとする父を引きずるようにして僕らが子供のころからお世話になっている近くの医者の先生の所に連れて行ったらしい。血液検査をしたところ、白血球の値が異常なレベルにあることが判明し、翌日の検査ですい臓癌が診断され、緊急入院となった。既に肝臓にも多数の転移が見られた。母は多くを語らず、葬儀の後で聞かされたが、この時、既にステージ4との診断だったらしい。


五月二十四日(月)  4月中は、父にskypeでうちの子供たちの声を聞かせたり、メールでもやりとりができた。父の近くに住んでいる妹からも、「コタツに座って大人しく本を読んだりしてるから安心して。」と電話で言っていた。しかし、五月半ばぐらいから、ぱったりとメールを見ている気配がなくなり、電話口にも出てこなくなった。母は、相変わらず多くを語らなかった。  オランダでは三連休だったこの二十四日の月曜日、僕はその連休が明けた後の水曜日にある大事なプレゼンの準備や残務処理でどうしても休日出勤せねばならず、家族を置いて会社に行った。その日の朝、出勤前に母に電話をしたら、「仕事の都合さえつけばすぐに一度父の顔を見に来てもらえないか。何しろ仕事が優先だから、その都合次第でいいけれど・・・」と言ってきた。もともと、父の癌が発覚する前から、6月最終週には夏休みに入った子供達を連れて日本に帰る予定だったので、それも待たずして一時帰国を急いだ方がよいくらい父の容体が悪くなっているのかと気になった。いずれにせよ、会社と旅行代理店が営業を始める火曜の朝を待ってからどうするか決めることにした。  五月二十五日(火)  家内と話して、土日+2日休みを取っての日本2泊で家族揃って神戸に見舞いに帰ることにした。朝早めに会社に行って、仕事をしながら旅行代理店が開くのを待っていると、僕の携帯が鳴り、妻が、「お母様から電話があったの。すぐ実家に折り返してあげて。」と言った。コールバックすると、母は力ない声で帰ってこれそうかと聞いた。父は急速に衰え、医師の質問に対する受け答えも時におぼつかないという。腹水がパンパンに溜まり、足からは膿が出ている。肝機能が著しく低下しているので、肝臓で除去されなくなった毒が脳にまで回りつつあるのだろうと母は言った。その先の臨終の時はもういいから、葬式にさえ出てくれればいいから、父の意識のはっきりしている間に顔を見せてやってくれといった。「でもね・・・お父さんは頑張っててね・・・ホントにいい子でね・・・昨日も、おしっこに行きたいからって30分おきにベッドから出て、自分でトイレに行くの。痛いとも苦しいとも全然いわずにね・・・。」母はか細い声でそういった。  僕は、旅行代理店に電話し、金曜発のフライトを予約した。水曜にベルギーで大事なプレゼンがあるが、長く続いた仕事の山もとりあえずこれで一区切りつく。木曜に社内系の仕事の後片付けをして日本に行けば問題ない。現地2泊で子供を日本に往復させるのはちょっとかわいそうだが、まあなんとかなるだろう。孫の顔を見れば父も少しは元気が出るかもしれない。そう思っていた。



五月二十六日(水) 欧州  早朝6時半に家を出て車でブラッセルに向かった。前日深夜、翌朝出発前にも作業せねばならないくらい、相変わらずの間一髪モードでの資料準備だった。10時半から欧州人のダイレクターへのプレゼン。この前の週に、別の部門だが同じ会社の日本人のダイレクターにもプレゼンをやったが、今回の方がずっと重かった。相当しっかりした内容にしないといけないと、このプレゼンのアレンジが決まった当初から緊張していたが、やはり、本番でもかなり濃いやりとりがあった。しかしなんとか無事プレゼン終了。食事を挟んで同じ会社の別部門とも打ち合わせ、アムスへの帰路についた。  途中、一度高速の乗り換え口を間違えて渋滞に捕まり、アムスのオフィスに戻るのが30分ぐらい遅くなった。オフィスに帰ると夕方5時少し前、幾つかその日のうちにやっておいた方が良さそうな仕事もあり、一応PCは立ち上げたが、なんとも気合が入らない。もともと、大きなプレゼンの時は、資料作りから本番まで体中の全エネルギーを投入してやるので、終わった後は軽い放心状態になるのだが、この日は特にひどかった。早朝に家を出て、往復500kmあまりを車で走ったせいもあるかもしれない。  どうにも仕事になりそうにないので、僕は、オランダに来て初めて、5時ピタで会社を出て家に帰った。家族を驚かせてやろう、そう思って扉を開けると、よその子供が二人遊びに来ていた。この日は子供たちの学校のスポーツデーで意気投合したクラスメートをうちに呼んだらしい。小一時間ほどして親が迎えに来て子供達は帰って行った。 「パパ今日は何で早かったの?」「今日は晩御飯前に風呂に入れるかな。」娘達とそんな話しをしていると、妻がキッチンに僕を呼び、椅子に座ってくれといった。 「落ち着いて聞いて・・・・」妻はそう切り出した。 「さっきお母さまから電話があってね・・・・」 ???? 「間に合わなかったの・・・・」  僕は、瞬間、事態が理解できなかった。いくら癌のステージ4とはいえ、3月の発覚で、こんなに早くなんてありえないだろう。 「えっ・・・・???」 僕は、そういったまま絶句してしまった。 「あなたの携帯にかけたけど繋がらないからってうちに電話があったの。お父様・・・・亡くなったって・・・・。通夜は金曜、葬儀は土曜日だって・・・。」  妻は、母から伝え聞いた父の臨終時の状況をぽつりぽつりと話した。僕は、相変わらず状況を飲み込めずにいた。  妻と相談し、子供たちにもその事実を伝えた。娘がしくしくと泣き出し、自分も無性に涙が出てきた。家族四人で台所の床にへたり込んで泣いた。  五月二十六日(水) 日本  その日も、父は自分でトイレに行き、普通に食事も取ったという。変調が起こったのは夕食を取っていた六時ごろ。既に末期癌だったこともあってか、父は病院ではなく自宅で療養していた。訪問医療を専門に行う病院のネットワークが神戸にはあるそうで、実家がある区に拠点を持つ先生に診てもらっていた。その仕組みを紹介してくださったのは、実家のご近所にお住まいで父母とは30年来のお付き合いのある精神科の教授であった。  父が腹痛を訴えたので、母は、訪問医療の主治医と看護師そしてご近所の教授に連絡した。妹もすぐに実家に駆け付けた。父は、痛みを訴え苦悶していたという。肝臓の転移の一つが破れ、癌細胞が腹腔に流れ出したとの診断であった。  母と妹が手を取り、父に話しかけた。 「安らかな死だったよ・・・。『じいじのこと、みんな好きだからね。』っていってあげた。ちゃんと聞こえてたと思う・・・・。」アムスから電話をかけた時、妹はそういっていた。 「あの子(妹)がね・・・小さいころお父さんによく歌ってもらったねっていってね・・・お父さんの手を取って子守唄のようにずっと歌ってあげてた・・・『お馬はみんな ぱっぱか走る ぱっぱか走る ぱっぱか走る』って・・・。」日本に戻った後、母はその時の妹の様子を何度も語った。  午後9時25分 父、すい臓癌により死去。享年68歳。6時からの病魔との最後の戦い。7時間時差のある欧州では、11時から2時半まで、丁度僕が客先でプレゼンと打ち合わせをしている間の出来事であった。

五月二十七日(木)  9時になるのを待って旅行代理店に電話をし、金曜日で予約していたフライトを1日切り上げ、当日13時50分発のKLM便を予約した。空港へは、アムスのオフィスの同僚が2台の車で送ってくれた。  欧州から日本へのフライトでは、広大なシベリアの原野を越え、東から迫ってくる夕暮れと朝やけを、迎え撃つようにして越えていく。途中、シベリア上空の真っ暗な機内で、目を覚ました娘が座席横のブラインドを開け「パパ、外は夜だよ。」といった。これまで見たことのないような澄んだ銀色の満月が、翼の先の誘導灯の脇にずっと寄り添うように光っていた。 五月二十八日(金)  日本時間朝8時過ぎ着のKLMで関空着。空港には、前日にシンガポールから帰ってきていた弟が車で迎えに来ていた。彼も、父の今際の際には間に合わなかった。  実家着。日本はまだ梅雨に入っておらず、さわやかな五月の薫風が吹きわたっていた。亡骸となった父は、玄関脇の和室に静かに横たえられていた。まるで眠っているような、安らかな死に顔であった。  思えば、昨年7月の赴任の時には、もう何もかもが忙しくて、とうとう実家に挨拶にもいかないまま日本を出てきてしまった。あの3月に父と会えたことがせめてもの救いだ。あの日、車の中でひたすらしゃべっていた父は、恐らくその時点では、自分の癌の発症に気づいていなかったと思う。でも父は、或いは、父の魂は、自分の顔を見て、言うべきことを伝えたタイミングで、カウントダウンのボタンを押したのだ。そんな気がしてならない。



  *  *  *  *  *  * 


 

 以上が、父が他界するまでの顛末である。あれから随分の時が流れたが、自分には、父を失ったという感覚はあまりない。父とは、遠くに見える山のような存在ではないかと思う。生前も、死んでからもずっとそこにあって、優しく自分たちを見守り、自分は、時々その山を見て、今、自分がどこにいるのかを知る・・・。それが、自分にとっての父という存在である。




 最後に:「先生のお話し」


 実家から4件を隔てた隣に、大学の精神科の教授が住んでいらっしゃる。父の8つの年上にあたる方ではあったが、父は、以前からよくこの先生とよもやま話しをしていたらしい。今回の父の発症でも、処方する薬や治療の仕方について先生にさまざまなアドバイスをいただいた。在宅での治療を勧めていただき、その主治医を紹介してくださったのもこの先生であった。  実家は、山を切り開いた新興住宅地(30年前の「新興」ではあるが)にあり、大学を出るまで僕が過ごした2階の東南の部屋からは、東の窓のすぐ前に森が見え、南のベランダからは瀬戸の海を隔てて空気のよい日には遠く紀伊水道までが見渡せた。ここに介護用のベッドを入れ、最期の時期を父はここで過ごした。先生は毎日のようにこの病室にお越しになり、父の求めでベッドの隣に座布団を敷いて並ぶようにして横になられた。そんな恰好で、就学時代は違うもののたまたま二人の共同の母校であった大学のキャンパスや、下宿の近くの静かな疎水の小径や、父がその頃出会った母との話しをしたという。部屋の外の森ではウグイスがよく鳴いていたとのことであった。  通夜の晩、式の最後にこの先生にお話しをいただいた。すい臓癌の病状と治療について、家で最期を迎える患者と家族を医療面で支える在宅医療というものについて、父の実例を通夜に出てきてくださる皆さんにも話しをしてほしいとの、母の依頼によるものだった。

 先生は、ゆっくりと杖をついて斎場の前に進み出られ、パイプ椅子に腰かけられて、教授らしい静かな口調で語られた。そのお話しの最後の部分を、ここに記しておきたい。  *   *   *   *   *   *  回復の始めというのは非常にリスクが高い。回復というのは山を降りるようなものです。八ヶ岳をご存知の方・・・赤岳を降りるときなら、崖を降りて暫くするとお花畑に出ますね。あそこから小海線が走っているのが見える。手に取るように見ええるわけでございます。あそこへ一気に行きたいという気持ちになります。故人のこの頃の小回復に接し、周りの方も喜んで、良かったねとか、見舞いが殺到する。本人も喜ぶと・・・。これは一番危ないのでありまして、私は、申し訳ないけど、そういうのはお止めしたんです。  そのまま段々お腹の水も取れて良くなっていくかと思ったんですけれども・・・。お花畑が途中にあって、その次には美しが森という森があるのですが、実際は暗い森です。このすい臓癌でここの暗い森を通り抜けた人はいるのかどうか・・・。  何が起こるんだろうと思っておりましたらば、お亡くなりになる三時間くらい前でしょうか、急にお腹の痛みを訴えられた。奥様が、訪問看護ステーションとドクターのT先生と、私のところに連絡をしてこられました。私は近いですから一番に到着しました。確かに痛がって苦悶している。ナースがすぐやってまいりました。  肝臓に8つほどピーナツぐらいの転移があったんですけれども、そのうちの一つが破れたのでありましょう。「Rapture」ということであります。そして、T先生もそれを裏書きされました。ということは、それまで臓器の中に収まっていた癌細胞が外へ出たということですね。腹腔の中に出た。残念ながら・・・これをどうすることも出来ない。僅か薄いミリ単位の腹膜が破れたわけです。非常に残念だけども・・・ここで力及ばない。  そこで、私どもは皆後ろに退いて、ご家族の方々が思いのたけをお話しになりました。答えられませんけれども、耳というのは最後まで聞こえております。全部届いたと思います。  いつも書斎でご家族に包まれて・・・・・・・。でも、最期の瞬間というのは本当に短かったです。そして、私は、看護婦さんはともかく、ドクターが泣くのをはじめて見ました。T先生は泣かれました。私は・・・もらい泣きをしたに過ぎません・・・・。そのような・・しかし、今まで、ご臨終というまでドアが閉められて、医者がなんか向こうでがさがさしていて、そして、ドアを開けた時には、お入りくださいと言われた時には、遺体と直面するという今までの逝き方とは全然違うなあと思いました。  そういうことをご報告したいと思います。これが、在宅医療の今日であります。八合目までは降りたと、希望的かもしれませんが思いたいのですけれども、そこから先の暗い森はまだ我々の手が届いていないのかもしれません。まあ、そういう風にして・・・そうですね・・・ご家族の方の呼びかけするなかで亡くなっていかれました。そういうことでございます。  以上・・・ご静聴ありがとうございました。


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