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モンパルナスの絵描きたち 関口俊吾編



 パリに住んで2か月ほど経った6月の週末、住まいに選んだアパルトマン近くにあり、まだ足を踏み入れていなかったモンパルナス界隈を、カメラを持って散策してみた。


 良く晴れた、パリにしてはかなり暑い日曜日の正午前のひと時。4月頃の、まだうすら寒く、コロナのロックダウンで静まり返っていたパリとは打って変わった祝祭的な雰囲気で、下町風のダゲール通り(Rue Daguerre)は、楽し気に行きかう夏服の人々で賑わっていた。


 帰り道、ふと見ると、モンパルナス墓地の中を通っていけそうだったので、その緑の木陰の下を歩いて帰ることにした。墓地と言っても、昼間のモンパルナス墓地におどろおどろしさは全くなく、木陰越しの青い空にくっきりとした飛行機雲が遠くの方へ伸びていくのが見え、墓地内の通り沿いには、人が立って入れるほどの高さの小さな教会のような形をした祠型の墓や、故人の生前の功績を称えるような様々な意匠の墓石が並んでいて、見る目を楽しませた。


 恐らくこっちが自分のアパルトマンの方向だろうと、墓地内の幾つかの角を曲がって進んでいくと、ふと漢字の書いてある墓石に巡り合った。L字型の道の角にあったとの記憶だが、なんとなく、どん着きで行きついたという感覚で、なんだかその日、そこに行くように呼ばれてその場にたどり着いたような感覚を覚えた。


 墓石には、漢字で“関口家之墓”と書いてあり、家紋も施してあった。大きなお墓だったが、石の感じからしても、墓石だけ日本で作ってパリに送ったのではないかと思われた。墓石には、アルファベットで、


 KOBE 1er JANVIER 1911

 PARIS 13 AVRIL 2002


 とも書いてあった。“へぇ、神戸の人だったんだ。”と興味を持ったので、アパルトマンに帰ってネットで調べてみた。


 関口俊吾。神戸出身の画家であった。1911年(明治44年)に、現在の新神戸駅のすぐ近くの熊谷町で生まれ、小学校から須磨の離宮前に移り住み、神戸三中(現長田高校)に進んだ。かの淀川長治氏の一期下であったという。


 関口俊吾は、画才を認められ、フランス政府招聘留学生として1935年に渡仏して、第二次大戦の勃発とヒトラーによるパリの占領を経験していったん帰国し、戦後改めて渡仏して2002年までパリに滞在し、この地で生涯を終えている。彼が拠点としたモンパルナスは、当時の絵画の世界的ムーブメントの一大発信地であった。


 その日、実家の母にLINEでそのいきさつを書き送った。関口氏が小学校から高校時代を過ごした須磨の離宮前は、実家からそう遠くない。


「関口俊吾・・・知らないわね。でも、“須磨の生き字引”のNさんに今度聞いてみるわ。」と母は返してきた。Nさんとは、自分が小学校の頃に住んでいた神戸市須磨区の新興住宅街(いわゆる“ニュータウン”)のテラスハウスのご近所だった方で、弟の同級生がいたこともあって懇意にしていたファミリーの、よくしゃべる奥さんだった。


 翌日の母のLINEによると、Nさんにこの話しをしてみたところ、戦後Nさんの実家が、関口家に間借りしていたことがあったのだという。お金持ちで大きな家だったそうである。Nさんの母がそう語ったのを、Nさんが記憶していたとのことであるが、ひょっとすると、何かの記憶違いということもあったかもしれない。


 関口氏の情報は、ネットでも幾つか情報を見つけることが出来た。氏は、故郷神戸で、震災後間もない1997年、本人が86歳だった時に、個展を開催している。その時の対談が、地元のミニコミ誌“こべっこ”に掲載された記事も読むことが出来た。この時発売された画集がネットオークションに出ているのも見つけることが出来たので、早速注文して実家の母の元に送った。


 関口氏ご本人が書いた本もあった。「パリの水の味 六十年をパリで暮らして」というエッセイで、自身の素敵な絵が表紙に載せられていた。もう一冊は、「戦争とパリ ある二人の日本人の青春」という本で、第二次世界大戦下、ヒトラーの率いるナチス第三帝国のパリ侵攻に巻き込まれた、関口俊吾と加藤菊枝という二人の若き日本人について書かれている。著者は、読売新聞パリ支局長の池村俊郎という方である。


 いずれの書籍もネットで手に入ったので、実家の母の元に送った。母は、特に「パリの水の味」が気に入ったようで、日本にいながら、パリに行ったような気になれてとても良かったと言っていた。


 それらの書籍と画集は、母から東灘の自分の家族の元に届けてもらい、そこから歩いて15分の嫁の両親の元に、嫁に持って行ってもらった。義理の父は、長く神戸で船舶関係の仕事をしていたが、引退してからは、趣味のピアノの演奏や指揮と共に、自ら水彩画や油絵も描いていた人なので、届けられた画集を、楽しんでみてくれたようであった。


 それから暫くして、嫁が画集と本を実家に引き取りに行き、小包にしてパリに送ってくれた。コロナ禍で値段は通常より高かったが、詰め合わせてもらった顆粒の浅漬けの素やふりかけ、100均で買ってきてもらった幾つかの小物と、自分が、東京で出国間際にクリーニングに出したまま、どうにも時間が取れずに引き取りに行けなかったジャケットとともに、無事に自分の手元に届けられた。


 芸術の都パリ。彼の地に赴任したら、その街で活躍した芸術家たちのゆかりの地を訪れ、手記を書きたいと思っていた。これも何かのご縁なのだろう。この稿を、関口俊吾の生涯を辿ることから、書き始めたいと思う。





*   *   *   *   *   *   *   *



 小包が届いたのは9月最初の木曜日だった。その日自分は、こちらに来てから初めての出張で、フランス北部の街に行っていたが、金曜にオフィスに戻ってくると、自分の机の上に小包が置いてあった。段ボールを開けてみると、丁寧に梱包された本や品々はどれも無事で、久々に家族を身近に感じられたようでとても嬉しかった。


 恐らくその日だったと思う。オフィスで会社のメールを見ていたら、地元の日本人会のメールマガジンが届いていて、兵庫県パリ事務所で、兵庫にゆかりのある作家の作品展が翌週から開催されるという。パリに兵庫県事務所があるのもその時初めて知ったが、展示会というのも興味深かった。“作家”とあるが、説明文からして絵画の展示会らしかった。ひょっとすると関口氏にまつわる何かがわかるかもしれないと思い、覗きに行ってみることにした。


 展示会は、ウイークデーしかやってなかったので、週明けの火曜日の昼休みに兵庫県パリ事務所に足を運んできた。この夏のパリはずっと天候不順で、雨が多く気温も低かったが、9月に入ってからは何故か、今更といった感じで暑い日が続き、その日もパリにしては少し蒸し暑く、汗をかきながら、2区にあるその場所に向かった。


 兵庫県のパリ事務所は、日本食レストランも多い一角の古い建物の中にあった。こじんまりとした部屋だったが、建物のシックさも相まって、ちょっとした展示会をするには理想的な環境で、壁には、素敵な風景画や抽象画がたくさん掛けられていた。


 会場には何人かの人が見に来ていたが、自分が入るとすぐ、事務所の所長さんに声をかけて頂いた。年は自分より少し下ぐらいだろうか。こてこての関西弁が懐かしく響いた。所長さんが通った小学校が、自分の家族が住んでいる神戸の自宅のすぐ近くだったこと等もあり話が盛り上がった。会場には、女性の副所長さんもいらして、やはりこてこての関西弁で、3人で、暫く盛り上がっていた。


 会話の中で、関口氏の話しも出してみた。お二方とも知らないという。「でも、県人会の会長のIさんやったら知ってはるかもしれません。今度聞いておきますわ。」そう話していたちょうどその時、白髪の紳士が会場に入ってこられた。果たして、その方が、会長のIさんだった。


 所長さんから自分のことをIさんに紹介いただき、所長さん、副所長さん、Iさんと自分で少しお話しした後、

「今ちょうど会長さんの話しをしてたところで・・。会長さん、関口俊吾さんって画家の方を知ってはりますか?」と所長さんが切り出された。「もちろんよく知ってますよ。もう随分前に亡くなられましたが、パリの兵庫県人会の重鎮でね・・・・」


 そういってIさんは、懐かしそうに関口氏の話しをされた。関口氏のご実家は、戦前、神戸で汽船の会社を経営されていて非常に裕福だったという。戦中戦後のドタバタで、残念ながらその後事業の方はダメになってしまったが・・・。奥様も裕福な家のお嬢様で、お亡くなりになるまで、二人で仲睦まじくパリで暮らしておられた。そして、関口ご夫妻には、二人の息子さんがいらっしゃって、お二方とも、パリで暮らしていらっしゃるという。毎年開催される新年会に来れば、会えるかもしれない。Iさんはそうおっしゃった。


 その展開には、さすがに自分もびっくりした。ひょっとすると、何か少しぐらいは糸口ぐらいが掴めるかもしれない。そう思ってお邪魔した展示会だったが、思いがけぬご縁で、扉がまた一つ開いた気がした。


 とりあえず、手元に届いた本を読まなければ。せっかく頂いたご縁なのだから、丁寧にこの糸を手繰っていきたい。そう思った。


*   *   *   *   *   *   *   *





 以下、関口俊吾画伯のことを、敬愛を込めて“セキグチ”と呼ばせていただくこととしたい。

 

 セキグチは、1911年(明治44年)の元旦に、現在の新神戸駅がある場所からほど近い熊内(くもち)町で生まれている。そこから生田川を挟んだ対岸の、西へ伸びる一帯が、有名な北野の異人館街であるが、熊内町から東へ、青谷を通って五毛天神の辺りへと続く山手の道の界隈も、どこかヨーロッパの風情を感じさせて自分は好きである。

 

 そんな山手にあったセキグチの家は、大きな建物もなかった当時は、さぞかし眺望が良かったろうと思う。事実、小さい頃のセキグチは、この生家から、港に出入りする船を眺めるのが好きだったという。

 

 セキグチの実家は、汽船会社を経営し財を成した一族であった。セキグチが幼少だった頃、第一次世界大戦(1914-1918年)の好景気に日本が沸いた時に大きな利益を上げ、その資金で一時は銀行業にも進出したが、その後襲った恐慌で銀行が破綻。私財を使って預金者保護に奔走した後、残った資産で関口汽船として再び海運に従事し、南太平洋への貨物輸送を担ったという。

 

 船と縁のあった関口家。その関係は、或いは江戸時代からだろうかと、つい、思いを巡らせたくなる。港神戸は、開国前は、兵庫の津という名で、北前船の寄港地として栄えた。関口家の先祖もそこで生業を立てていたのかどうかは、自分が調べた資料では語られていない。

 

 少年セキグチは、大きな船が入ってくるのが見えると、港まで走って見に行ったという。現在ポートタワーがあるメリケン波止場の辺りまで、熊内町から行っていたのだとすると、子供の足ではけっこうな距離である。夢中で走っていたら、腰に下げていた墨汁の栓が抜け、袴が真っ黒になったことがあると、晩年、セキグチは語っている。

 セキグチは、小学生の頃、須磨の離宮前に移り住んだ。須磨は、神戸西部の海沿いの街で、モダンな都心の山手とは打って変わって、歴史の香りのする静かな一角である。平安の頃には、百人一首の“幾夜寝覚めぬ須磨の関守”で有名な須磨の関(摂津と播磨の境)があり、大宰府への左遷の途上にある菅原道真が訪れた漁村で、敷物の代わりに漁に使う船を舫う綱を丸く敷いて、道真にそこに座ってもらったといういわれの綱敷天満宮や、源平一の谷合戦ゆかりの須磨寺もある。

 

 離宮前という町名は、海岸から少し陸を上がったあたりに大正天皇の離宮があったことに由来しており、今でもその町名は残っている。海岸部から離宮へと上がる道は、バス道ながら、その両脇には、芝の畝と盆栽のような趣の黒松の植え込みがずっと続いていて、天皇一家が行幸されていた頃の由緒を感じさせる。

 

 セキグチが子供だった頃の離宮前辺りには、阪神間の資産家の家や別荘がたくさんあったとのことだから、関東でいえば、辻堂や小田原の雰囲気がそれに近いだろうか。セキグチが行っていた須磨浦小学校(現 学校法人須磨浦学園)は、その当時、別荘小学校と呼ばれていたとのことである。

 

 ここでもまた、少年セキグチは、いつも海を見ていたという。須磨の海の沖に、紀伊水道(大阪湾から太平洋へと繋がる紀淡海峡)を曲がっていくアメリカ船のお尻が見えたと、晩年のセキグチは語っている。

 

 紀伊水道を望む光景には、自分も見覚えがある。自分が高校生の時に移り住んだ家(今でも母が暮らす実家である)は、区としては垂水区になり、海からはけっこう奥まったところにあるが、高台の上の一番手前の家なので、晴れた日には大阪湾を通してその先の紀伊水道まで見渡せた。空気の澄んだ夜には、紀伊水道に浮かぶ友が島の灯台の赤と白の光が、交互に回るのが見えたが、それは当時周りが殆ど田んぼで町の灯りも少なかったからで、今ではもう、灯台の光を見出すことは難しくなっているのではないかと思う。

 

話しが横にそれてしまった。とにかく、少年セキグチは、潮の匂いを感じ、海と船を見ながら育った。だから彼の作品には、フランスの港や船を描いたものが多いのだという。マルセイユや、ブルターニュの鄙びた漁港を描いた作品を、多数残している。どれも、港に停泊する船がゆっくりと揺れる様子や、辺りの潮の匂いが伝わってきそうな、趣のある作品である。


 海と船を見ていた頃の少年セキグチ。その少年セキグチも、まさか、いずれ自分が船に乗って、大海の遥か向こうのフランスという国に渡ることになろうとは、想像もしていなかったかもしれない。



*   *   *   *   *   *   *   *



 セキグチに絵を描くことを教えたのは、小学校の担任の三島という先生だった。当時、クレヨンというものが世に出て、小学校での図画の授業にそれを使うことが推奨され、少年セキグチも、クレヨン画をよく描いたという。その中で、15号の画用紙に白鳥を描いたものが市展に入選した。15号と言えば、横約60cm、縦約50cmのサイズだから、小学生としては大作である。

 三島先生は、少年セキグチに野球の面白さも教えた。少年は成長し、やがて旧制神戸三中、現長田高校に進学した。セキグチの同学年には、後に神戸市長となった宮崎辰雄がおり、一期上には、先にも触れた映画評論家の淀川長治がいた。

 当時の神戸には4つの学区があり、一中が現神戸高校、二中が兵庫高校、三中が長田高校で、四中が自分の母校である星陵高校となって現在まで続いている。ちなみに、二中/兵庫高校は、小磯良平、東山魁夷という画の大家を世に輩出している。小磯良平の生まれが1903年、東山魁夷が1908年、関口俊吾が1911年だから、3人とも比較的世代が近い。

 三中でのセキグチは、野球部の活動に熱中していたという。そのセキグチを、思いがけない不幸が襲う。ある時セキグチの足に打球が当たって出来た打撲傷が悪化し、骨膜炎になってしまった。セキグチは長期療養を強いられ、最終的には退学せざるを得なくなった。

 セキグチは、汽船会社も経営する資産家の息子であり、父は、大手銀行の副頭取まで務めた実業家であった。進学校であった三中にいたセキグチも、やがて関西か東京の帝大、乃至は高等商業学校に進み、神戸の実業界の名士として名を連ねることになったかもしれないが、その道は閉ざされてしまった。

 或いはそれが、彼の人生のそもそもの定めだったのかもしれない。セキグチは、画家になることを志し、本格的に洋画を習うため、京都の鹿子木 孟郎(かのこぎ たけしろう)アカデミーに入門する。1931年(昭和6年)、セキグチ20歳の時であった。

 鹿子木は、1900年代初めにパリに留学して洋画を学び、帰国した後は、パリで知り合った浅井忠とともに画壇の後進育成にあたっていた。京都には、浅井、鹿子木らが立ち上げた関西美術院もあり、当時の日本の洋画の中心地だったようである。

 画家を志すからにはパリで学ばなければと心に決めたセキグチは、京都日仏学館でフランス語の勉強を始めた。当時の京都日仏学館は、京大仏文科の教授が出張で教鞭に立つ等、本格的なフランス語指導を行っており、京大仏文科の学生たちも補講で来ていたという。

 セキグチは、5年間の奮闘努力の末、1935年に学館の仏語仏文学高等科卒業試験に合格した。この試験に合格すれば、フランスの大学の入学資格であるバカロレアが与えられる。この高等科の卒業資格を得るのは相当に大変だったようで、卒業式には駐日フランス大使も列席して祝辞を述べるのが恒例であったという。セキグチの代の卒業生は、彼を含めて僅か3名であった。

 同じ年、青年セキグチにもう一つの福音がもたらされた。前年に描き、京都市美術展覧会に出展していた作品「紅のドレス」が入賞した。モデルは、セキグチの友人のフィアンセであった。

 セキグチの人生は、大きな躍進の時を迎えていた。日仏学館を卒業したセキグチは、フランス人学館長から、フランス政府による給費留学生試験ブルシエの受験を推薦された。ブルシエの試験はフランス語による作文で、課題は、「フランスを友人に説明するつもりで作文せよ」というものであったという。

 この代のブルシエに合格したのは6人。セキグチ以外の5人は皆、帝大卒の、後に教授や学部長になった秀才たちばかりで、芸術枠はセキグチただ一人であった。彼は、日本人として初めての画学留学生となった。

 1935年9月4日、セキグチはフランスへ向け神戸港を出港する船の甲板に立った。正に、人生の船出とも言うべきシーンであったろう。彼を乗せた船の名は、“ダルタニアン”といった。大いなる冒険の始まりである。



*   *   *   *   *   *   *   *





 舞台をパリに移す前に、戦前の神戸、より正確に言えば、阪神間について、少し書いておきたい。“阪神間モダニズム”と呼ばれる、戦前の文化芸術的ムーブメントについてである。


 秀吉の頃から江戸期を通して、“天下の台所”と呼ばれた大阪は、維新後の蔵屋敷の廃止、藩債処分等で、物流・金融の中心としての機能を失い、一時壊滅的な打撃を受けたが、薩摩出身の財界人五代友厚らの尽力と、西南戦争時の軍事物資の製造特需で再生し、我が国に行ける近代産業都市の先駆けとなり、明治20年代には、市内に多数の紡績工場が建ち並ぶ“東洋のマンチェスター”と呼ばれるほどの一大工業都市となった。


 一方で、そうした大阪の発展は、人口の過密と都市公害の問題を引き起こした。


 工場が建ち並ぶ大阪には、職を求める人々が続々と移り住んだため、明治30年に約80万人だった人口は、10年後の明治40年頃には、1.5倍の120万人台にまで、急激に増加していった。彼らが住んだ住居は、昔ながらの長屋だった。


 しかも、当時の大阪では、市街の中心地の人々が住む長屋と隣り合わせのような場所に工場群が建ち並び、煙突から黒い煙をもくもくと吐いていたのである。当然のこととして空気は汚れていた。都市の過密化により、家賃も決して安くなったという。ロンドンをはじめ、産業革命期の大都市は、皆そのような状況にあったのかもしれない。


 そうした中、大阪経済圏の市民の住環境を大きく変える人物が現れた。阪急電鉄の創業者、小林一三(いちぞう)である。三井銀行の行員から箕面有馬電気軌道にスカウトされた彼は、田んぼしかなかった沿線の土地を買い、そこに住宅を建てて、割賦で庶民にも手が届く価格の家を売ることでその地をベッドタウンとし、そこから、人々を、鉄道を使って都心へ通勤させるというビジネスモデルを作り出した。それは、新しいライフモデルの創出でもあった。


 一三の会社は、後に、大阪神戸間にも軌道を敷き、これが阪急神戸線となった。六甲山の裾野に位置し、前には茅渟(ちぬ)の海/大阪湾を望む風光明媚なこの沿線には、大都市大阪の富裕層が移り住んだ。

 江戸期以来の大阪の富豪の住まいは船場にあった。我が国のブルジョワとでも言うべき存在である。そこには、洒脱を愛し、美なるもの、粋なるものに富を費やす文化があった。その彼らの多くが、阪神間の芦屋等に移住した。時は、文化・産業で先を行くヨーロッパに、人々が大いなる憧憬を抱いていた時代である。


 そうした背景の中で、ヨーロッパの文化を旺盛に取り込んで育まれたのが、“阪神間モダニズム”である。その影響は、当時建てられた建築物として、今日も目にすることが出来る。


 例えば阪急電車の梅田駅。船のドックのような始発のプラットホームが、神戸線、宝塚線、京都線の9線分ずらりと横に並び、高い天井に覆われたその構造は、ヨーロッパのターミナル駅に多く見られる形式である。かつて存在したコンコースのかまぼこ型の天井と豪華なシャンデリアも、当時のモダンを象徴するものであった。


 阪神間モダニズムの時代に立てられた洋館も、芦屋を中心に多く残っている。公共の建物としては、映画“火垂るの墓”にも出てきた御影公会堂がある。御影公会堂は、1995年の阪神大震災時も凛とした姿を崩さず、付近住民の避難場所として利用された。その後、大規模な改修工事が行われたが、建物そのものは建築当時のものが今日まで残されている。


 人物でいえば、この地の出身者として、白洲次郎がいる。戦前の宝塚で育った手塚治虫も、阪神間モダニズムの申し子と言えるかもしれない。


 また、生まれは東京だが、文豪谷崎潤一郎が、関東大震災を機にこの地に移り住み、多くの文学作品を執筆したことも、広く世に知られている。彼の代表作である“細雪”は、芦屋に移り住んだ船場の名家の斜陽を描いた作品で、当時の阪神間の空気感が濃厚に描かれている。


 画家セキグチも、そんな阪神間モダニズムの時代の神戸で青少年期を過ごした。


 時代は戦後になるが、セキグチが描いた“ブルターニュの女”という絵画が週刊誌の表紙を飾り、それを谷崎潤一郎が気に入って購入し、玄関に飾っていたという。自分にとっては、谷崎もセキグチも、阪神間モダニズムという同じ絵の中にいる。


 夙川、芦屋から神戸の山手まで、そして、西宮と北の宝塚を繋ぐ今津線の辺りは、そうした歴史を持つ街である。経済的には、現在の大阪や神戸に戦前のような繁栄はないが、そのせいかどうか、阪神間モダニズムの中心であったこの界隈には、当時の栄光のまま時間が止まってしまったような空気感と、どこかヨーロッパに近い文化的な雰囲気がある。そういうエリアは、日本でほかにあまりないかもしれない。自分は、そんな、ゆったりとしたあの界隈の時間の流れが、とても好きである。 (続く)



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