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ラフマニノフ ピアノコンチェルト第2番


 自分は、東京にいた5年間、深い心の闇の中にいた。一番の暗黒は真ん中の年である2018年で、その暗闇の余韻は2019年まで続き、かろうじて薄暗がりに出ることが出来たのは、2020年になってからのことだった。


 自分はその頃、単身で大森に住んでいて、丸の内の本社まで京浜東北線で通っていた。朝6時に起きて、7時少し前には家を出て、JR大森駅から有楽町まで行き、東京国際フォーラムから丸の内仲通りを歩き、7時半には机に座って仕事を始めていた。


 そんな時代、JR有楽町駅を降りてから、オフィスに行くまでによく聞いていたのが、このラフマニノフのピアノコンチェルト第2番である。悲壮で劇的なピアノの旋律から始まり、やがて曲調が変わって、深い絶望と哀しみの中に一筋の希望を感じさせるような旋律で楽曲が進み、最後には、美しく澄んだ、大いなるフィナーレを迎える。


 自分は、ネット上に多く出ているラフマニノフのピアノコンチェルト第2番の中でも、このアンナ・フェドロバのピアノの演奏が、ことのほか心に響くように感じ、好んで聴いていた。


 ラフマニノフを聞きながら仲通りを歩いていた頃、時々、以前の職場での大先輩にあたる方と行き違った。その方は、もう現役を引退され、第二の職場で仕事をされていた。お互い、気が付けば、すれ違う時に会釈を交わしたが、自分は、イヤホンで音楽を聴いていたし、常に考え事をしていたので、自分の方がその方に気づかずに行き違うこともよくあったようである。


「いつも沈思黙考して歩いておられる。」その方は、ある時自分に、そんなメールを書いてこられた。いかにもその通りで、当時の自分は、自分を取り巻く全てと、何より自分自身に納得いかず、一人でいる時は、常にそのことを悶々と考え、絶望の淵を歩いていた。


「あなたの話しを是非うちの若い社員に聞かせてあげたいのです。」その大先輩は、それほど近しく仕事をしたわけではなかったのだが、自分宛のメールでそう書いてこられ、彼の第二の職場の若手社員と自分との飲み会の席をアレンジいただいた。その頃の自分は自己喪失の極限にあり、自分のように日本の企業社会において異色も甚だしい人間の話しなんか聞いていったいどうしようというのかと、半ば捨て鉢にそう思った。


 当時の自分が直面していた課題は、今考えると、“違う”と“足りない”の2つだったのではないかと思う。


 “違う”とは、日本流と海外流の違いである。帰国当初の自分は、日本より長く働いた海外での経験で培ったものに、大いなる自信を持っていた。現地の社員とタッグを組んで、お客さんの懐に飛び込み、混沌の中に秩序を打ち立てる力では誰にも負けないと思っていた。日本の業務は、随分地合いが違うだろうが、それでも自分の力は役に立つだろうし、自分は、周りと違っているからこそいいのだろうと思っていた。


 そうではないことは、帰国して程なく明らかになった。日本において、違うは、”different”より“wrong”という意味合いの方が強い。ダイバーシティという看板をあちこちに掲げていながら一体なんなのだと、帰国当初の自分は大いに憤った。おかしいではないか。


 しかし、おかしいのは自分の方だった。明らかに自分は、日本社会の中で浮いた存在だった。そして、自分が自信を持っていたコンピテンシーが、日本の中間管理職を務める上では殆どなんの役にも立たず、代わりにこれがあるから良いというものでもなかった。異質とは即ち、不適合なのである。


 それは、日本的組織がおかしいからではない。日本的均質組織においては、異質なる存在は、構成員に困惑をもたらす。ましてや、組織の秩序の担い手であるべき管理職が異質であることは、もはや混乱の要素でしかなく、その職位が高ければ、組織全体に深刻な恐慌を引き起こす危険すらある。


 その事に気づいたのは、随分経ってからだった。この地にはこの地の法があるのだ。その在り方に変革をもたらすにせよ、まずはここの組織の根幹をなす法(それはどこにも書かれていない)、そして力学の在り方を理解し、その運用に自らが携わらなければどうにもならない。そこからはじき出されてしまっては、目指す変革も、そもそも実現できない。


 それに気づいて以後の自分は、自分と周りに“違う”ものがあるとすれば、一旦周りを“是”として受け入れ、自分を“非”として正すことに全力を尽くすべく、自らを戒めようとした。見方によっては、とても情けない姿だったであろう。いろんなことがあった。でも自分としては、そうするより他なかったのだ。


 “足りない”の方は、もっと難しかった。この国の中間管理職として必要とされる立ち回り方(それは、明らかに自分に足りなかった)以外にも、そもそもの組織人として体得しておくべきだったこと、さらには自身の性格まで含めて、足りない部分がたくさんあったのだと思う。正すべき部分と言ったほうがいいかもしれない。


 自分は、考えらえる全ての足りないものを何とか身につけ、正すべきことを全て正そうとした。それでも、何かが足りず、それ以上前へ進むことが許されなかった。計算違いを指摘された答案を、何度も検算して先生に出しては、毎回、答案に赤い大きなバッテン上書きされて突き返されるような絶望的な日々だった。何が足りないのかを、その大きな赤いバッテンは、教えてくれはしない。


 要するに自分は、ただひたすらに、日本社会に受け入れられ、認められたかったのだ。自分は、母国日本に、死ぬほど恋焦がれていた。一方の自分が、日本的な社会の在り方を否定し、変わらなければと口ではさんざん言いながら結局変われないその姿を、軽蔑すらしていたにも関わらず、である。


 いろんな意味で、自分は、思い知る必要があったのだろう。おかげで、たくさんの気づきがあったと思う。苦悩に満ちた5年間だったが、最後には、大いなる成果を手にすることが出来、自分なりに日本社会との折り合いがつけられ、自らの立ち位置もなんとか確保することが出来たと思う。


 ギリギリのところで引っ張り上げて頂いた上位者の方々、一緒に闘い、支えてくれた同僚、部下、そして、苦しい境遇の中でも、生きる喜びを忘れずにいさせてくれた社外の仲間の皆さんには、感謝の言葉もない。その全ての向こう側で、今でも自分は、日本を変えたいと思っている。


 この話しには、若干の後日談もある。最後まで計算が合わなかった“足りない”の理由がなんだったのかが、パリに来て1年以上経ってから漸くわかった。それは、自分の問題ではなかった。仏教では、それを餓鬼道という。自らは決して与えることがなく、欲しい欲しいと無限に貪り続け、それが当たり前だと思っているものがこの世には存在する。そのようなものに与え続けても、もとより足りるわけがない。そういうものが存在するとの平明な認識を、ただ持てばよかっただけの話しである。自分は、それを持っていなかった。そう考えれば、それも結局、自分の問題だったということかもしれない。


 絶望の淵。ギリギリの希望。その渦中にあった頃の自分は、このラフマニノフの悲壮な旋律の中に貫かれている微かな希望の光に、切実な救いを求めていたのかもしれない。自分にとってのラフマニノフ ピアノコンチェルト第2番は、そんな心象風景と共にあった一曲である。


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