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魔性なるロシアの大地とロシア舞台芸術の関係性について


  ロシアの冬は、暗く寒い。特に辛いのは、あまりに圧倒的なあの暗さである。夜は、10時ごろぼんやりと明け、太陽は、少しだけ上に上がったあたりをゆるゆると横に移動し、午後3時過ぎには再び地平線の下へと沈んでいってしまう。その太陽も、曇天の向こうにかろうじてその存在が確認できればいい方で、大概は厚い雲の向こうにあり、直に光を目にする機会は非常に限られている。

 

 あとはただひたすらに闇である。日本でも、秋の日はつるべ落としというが、ロシアの秋は、日本を遥かに上回るペースで日が短くなっていき、太陽を見る機会がどんどん減っていく。闇の深まりとともに心が砕けていくことを実感し、かなり深刻に鬱に近い状態になる。そのまま行けばノイローゼになって、その先は、アル中になるか、自殺を図るか、ロシア文学的な深い思考の沼の中に沈んでいくか・・・。


 太陽とは、かくも大事なものだったのかと、その存在の欠如に愕然とする。ヒトという生き物が厳しい冬を乗り越えるためには、温かさだけではなく、光の存在も不可欠なのである。


 ロシアにおける舞台芸術は、そんな、失われた太陽の代わりを成す存在なのではないかと思ったりする。彼の地では、どの街に行っても、バレエや演劇、音楽等の催しが、驚くほど多く開催されている。値段も、高価なものから庶民的なものまで様々である。


 それらの華やかな舞台は、真冬の太陽として、それを観る人の心を照らすのだ。


 身体が、生理現象として、そのような光の存在を、切実に求めるのである。そうした魂の渇望が、ロシアバレエやロシア音楽を育てた。そう考えることは出来ないだろうか。


 ロシアのバレエや音楽に、寒さが与えた影響も大きいだろう。暴力的なまでの寒さに身を置いて感じるのは、生命の危機である。肌に刺さる寒さが、我々の生命そのものを鷲掴みにし、文明生活の中で忘れていた野性を呼び起こさせる。“生きねば”と心が叫び、同時に、その寒さをもたらす大自然の圧倒的な力に、深い畏怖の念を感じるのである。


 そして、あの暗く冷たい大地は、とてつもなく広い。


 村上春樹の作品に、“国境の南、太陽の西”という中編小説がある。国境の南はメキシコ、太陽の西はシベリアである。国境の南は、ナットキングコールが歌ったジャズソングで、メキシコの若い娘に恋をするアメリカの青年の気持ちを歌ったものだが、村上氏の作品の中では、自分が知らない国境の南に何か素敵なものがあるのではないかという、ぼんやりした幻想として描かれている。


 太陽の西とは、広大なシベリアのある一点から、西の地平線に沈む太陽を見ている者の心の情景である。毎日毎日畑を耕していたシベリアの農夫が、地平線に沈む夕日を見ているうちに、自分の中でぷつりと何かが切れたように突然農具を放り出し、太陽が沈む西に向けて歩き続け、遂には行き倒れて死んでしまう。“ヒステリア・シベリアナ”として作中で紹介されるその精神の病は、恐らく村上氏の創作なのであろう。


 しかし、あの大地には、いつのまにか人の魂を奪って奥へ奥へと引きずり込むような得体のしれない力があると、実際、自分も感じる。あの広大な、母なる大地には、間違いなく、そのような魔性が住んでいる。その魔性を畏怖し、対峙しようとする人々の魂の震えが、ロシアの舞台芸術やロシア音楽が持つあの独特な陰影を生み出しているのではないかと自分は思う。


 そのエッジの効いた芸術性を、自分は、愛してやまない。 2021年12月

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