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如月の頃、児玉神社にて

 もうパリ行きが決まっていた今年の2月の良く晴れた週末に、江の島の児玉神社まで足を延ばしてみた。日露戦争の旅順攻略、奉天会戦で、大山巌、乃木希典と共に我が国の陸軍を率い、ロシアに対するギリギリの勝利を勝ち取った児玉源太郎を祀る神社である。出国までに、どうしても行っておきたかった。

 

 その日は、2月だというのに、小春日和というより少し暑いぐらいの陽気で、自分は、江の島への参道を抜け、橋を渡り、神社へと向かう森の中の階段を、汗を拭きながら登っていった。児玉神社は、江の島神社と同じ山にあるが、訪れる人は少なく、その日も参詣の途中、他の誰とも会わなかった。

 

 簡素ながら清廉な空気感が漂う境内で参詣を済ませた後、御朱印をもらおうと思って、境内の脇にある小さな社務所で御朱印帳を出した。すると巫女さんが、「本日は御朱印を書くものがおらず、半紙に書いたものをお渡ししております。」と自分に言った。

 

 せっかくここまで来たのにまさかそんなと最初は思ったが、これが出国前の最後のチャンスだろうし、半紙書きの御朱印をお願いすることにした。でも、実際にその半紙を手にすると、何かすごく特別な感じがして、それはそれでとても気に入って御朱印帳に挟み、家に帰ってから糊で貼ることにした。

 

 ふと、社務所の窓口の脇を見ると、「手相鑑定します 2000円」と書いてあった。へぇ、神社で手相を見るなんて珍しいな。値段も相場より安いし・・・。これも何かの縁かなと思って、巫女さんに、「手相鑑定もお願いします。」と言ってみた。

 

 手相を見てくれるのは巫女さん本人だった。年は40代ぐらいだろうか。眼鏡をかけていらして、なにかこう、透き通るような浮世離れした雰囲気の方で、鈴のような、玉のような、ころころとした奇麗な声でお話しをされた。

 

 巫女さんは、暫く自分の手のひらを眺めてから、自分のこれまでの境遇や、そこで自分が培ってきたことの意義について話された。どれも、素敵な言葉だった。

 

 その後、その巫女さんは、少し眉をひそめながら、何度か自分の手を右や左に少し傾けてじっと見ながらこうおっしゃられた。


「あなた様は・・・自らをしっかり高めている割に疑り深いところがあります。一旦疑念を持つといつまでも反芻し心にため込んでしまうところがあります。もう50も過ぎて、これまで立派に自らを正してきたのだから、そのようなことを気にする必要はありません。いつまでも拘るのは、心身の健康にとっても極めてよろしくなく、転居を機にすっかり縁を断つべきです。」


 それは、全くその通りだと、自分も思っている。でも、どうしてもそれを断ち切れない自分がいる。その日神社の境内で巫女さんから言われたことは、そのことを余程肝に銘ぜよと天から言われているのだと思った。


 その転居した先に、既に自分はいる。


 このようなことを、普通こういうところに書くべきではないのかもしれない。でも自分は、文字に書き出してそれを客観的に眺めてみることによってはじめて、その話しを“終わり”に出来るように感じている。自らを戒めるためにもそうする必要がある。


 よろしい。今が、浄化の時、訣別の時なのだ。そうすることにいたそう。




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