世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り
自分が浪人時代に試験問題として出合った漢文。韓愈の雑説である。
自分は、大学の部活動で馬術部に所属し、馬と濃厚に関わることになったが、これを最初に読んだ浪人の頃は、そうなるとは知る由もなかった。当時自分は、受験に失敗したどん底にいて、10代後半の深き悩みも抱える中、ここに書かれている馬のように、槽櫪(そうれき)の間に駢死(へんし)してたまるかと思い、必死に足掻いていた。そして、馬術部員として馬と向き合うようになって以降は、“伯楽”の立場としていろいろ思うところがあり、何度もこの漢文を読み直した。まず、その書き下し文と現代語訳から紹介したい。
<書き下し文>
世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず
故に名馬有りと雖も、ただ奴隷人の手に辱められ、
槽櫪(そうれき)の間に駢死(へんし)して、
千里をもって称せられざるなり
馬の千里なる者は、一食に或いは粟一石を尽くす
馬を食(やしな)う者は、其の能く千里なるを知らずして食ふなり
この馬や、千里の能有りと雖も、食飽かざれば、
力足らず、才の美外に見(あら)はれず
且つ常馬と等しからんと欲するも、得べからず
いづくんぞ其の能く千里なるを求めんや
これを策(むち)うつに其の道をもってせず
これを食ふに其の材を尽くさしむる能はず
これに鳴けども其の意を通ずる能はず
策を執りてこれに臨んで曰く、「天下に馬無し」と
ああ、其れ真に馬無きか、其れ真に馬を知らざるか
<現代語訳>
この世には、まず名馬を見分ける目利きが先にいて、然る後に一日に千里も走れる名馬が見いだされるものだ。一日に千里も走れる名馬はいつでもいるが、それを見抜ける目利きは、いつもいるとは限らない。優れた馬がもしいたとしても、それを見抜ける人がいなければ、ただ馬飼いの手で粗末に扱われ、馬小屋の中で他の普通の駄馬と首を並べて死んでいってしまい、千里を走れる名馬だとほめたたえられることもない。千里を走れる名馬は、一回の食事で時には穀物を一石も食べ尽くす。ところが、馬主は、その馬が一日に千里も走れる能力があるとは知らずに育てている。その馬が、千里の能力を持っているとしても、与えられる食物の量が不十分であれば、力を十分に発揮できず、持って生まれた素質も発揮することができない。せめて普通の馬と同じようにありたいと望んでも、それすら実現できない。こんな扱いで、どうしてその馬が千里を走ることなど、求めることができるだろうか。その馬の調教をするのに、然るべき対応を出来ず、その馬を食わせて育てるのに、その素質を十分発揮させるようなものの与え方も出来ず、馬がそれを飼い主に鳴いて訴えても、その気持ちを理解することもできない。然るに馬主は鞭を手にして、名馬に向かって嘆いて曰く、「世に名馬がいない」と。ああ、本当にいないのは名馬なのか、それとも名馬を見抜く能力を持つ人物なのか。
<所感>
哀しいかな、馬は使役動物であり、具体的な形で人の役に立つことが出来ない限り、その存在が許されない。例えば乗用馬であれば、人が乗るための訓練を受け、その能力を身につけた馬だけが、乗用馬としてこの世に存在することを許されるのである。
自分の所属した馬術部は、十分な資金力もなかったことや、”学生による自治”を基本方針にしていたため、調教の出来上がった馬を連れてくるのではなく、競走馬として脱落した馬を安値でもらってきて、その馬に乗用馬としての再調教を施していた。いわば、競走馬としての存在意義を否定された馬たちがもらわれてきたわけで、我々馬術部員は、乗用馬としての、新たな、そして最後のチャンスにかける馬たちと、共に生きようとしていたわけである。
馬暦の浅い学生が中心の調教だったため、うまくいかないことのほうが多かったと思う。そして、乗用馬としてものにならなかった馬は、いつまでも養っていくこともできず、止む無く離厩させざるを得なかった。離厩する馬は、馬運車に乗せられ馬場から出て行く。自分たちの馬場は、大阪湾が見下ろせる六甲山の山裾のキャンパスのど真ん中にあった。離厩する馬を積み、馬場から見下ろせる坂道を下っていくトラックを、無力感とともに他の部員たちと見送った光景を思い出す。
当時自分たちが突き付けられていた現実。それは、我々が預かった馬の能力を一定期間内に引き出せてやれないということは、その馬を物理的に殺すのとほぼ同義であるという、今考えれば、あまりに重いテーマであった。自分がここでいいたいのは、それが動物愛護の精神に反するとか、だから競馬や乗馬の在り方を変えねばならないとか、そういうことではない。
自分が強く思うのは、育てるという行為にかかわる人間は、その責任を深く認識しなければいけないということである。そのことは、何も動物の調教に限った話しではない。
伯楽とは、すなわち、親であり、教師であり、上司であり、いうなればあらゆる“大人”のことである。預かった人材の潜在能力を最大限に引き出す責任を負い、魂対魂の対等な関係で、誠実にその人材と向き合う責務を負っている。それを怠け、預かった人材の潜在能力の芽を摘んでしまっているとすれば、それはやはり、その人材を“殺している”のに等しい行為だと思う。幸い、人間は、さすがに本当に殺されることはない。しかし、人がなるべき自分になれず、しかもそれが、本人の努力の欠如によってではなく、明らかに指導者の育て方が悪かったり、本人の才能の芽や必死の努力を、指導者が踏みにじっていることに起因しているとすれば、それは、その人材を“殺している”ことに等しい蛮行であると、自分は思うのである。
我々社会の大人たちは、伯楽としての自分たちの立場と責務を、しっかりと認識すべきだと、自分は強く思う。
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