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バルカン・クライシス(Балканский кризис



 この冬になってから、何故か映画をよく見に行くようになった。今回見た“バルカンクライシス”は、“T-34”、”セイビング・レニングラード”に続いての戦争ものだ。前作2つが第二次世界大戦の作品だったが、今回見たのは、時代がぐっと下がって1999年のコソボ紛争を題材にしたものだ。ロシア、セルビア合作。

 

 話しの中心は、ロシア人、セルビア人、タタール人他の多国籍なメンバーにより構成される特殊部隊チーム。彼らがアルバニア系ゲリラと闘う。ロシア正規軍はほんのわき役だ。

 

 戦争アクション系のエンターテイメントとして、テンポも迫力もあって面白い。ヒーロー、ヒロインのロマンスあり、仲間の友情あり。随分昔の映画だけど、アメリカ映画の“アルマゲドン”とも、その辺の基本的な骨格は似てるかもしれない。

 

 そういうエンターテイメントとしてこの映画を楽しんだと同時に、けっこう深いなぁと思うことも幾つかあった。

 

 一つは、自分がずっと書き続けている第二次世界大戦時の独ソ戦の時のような様々な種類の暴力が、21世紀前夜のこの映画の時代にもあったのだということの再認識。それは今現在のシリアでもあって、日々報道で耳にしてもいるのだけど、その現実感、存在感を、自分は、殆ど実感していないのだということ。

 

 もう一つは、旧西側、東側をはじめ、国家それぞれの立ち位置からみた国益と大義があり、その民族それぞれに、守るべきもの、譲れないものがあるということ。NATOにはNATOの、ロシアにはロシアの国益があり、セルビア人、アルバニア人それぞれに、守るべきもの、譲れないものがある。

 

 その一つ一つは、それぞれに揺るぎない真実であり、互いに尊重されるべきものである。何かの拍子でそこにのっぴきならない利害関係が絡んだ時に、人々は憎しみ合い、時に殺しあうことになる。要するに戦争や紛争は、決して悪意によって生じるものではなく、何時の時代にも、誰の身の上にも起こりうるのだということを、改めて感じた気がする。

 

 そういう意味で、戦争を非難したり忌み嫌ったりすることは無意味なのかもしれない。例えば、地震や津波等の自然災害を非難することに意味があるか。むしろ、どういう力学でそれが生じるかを科学し、どうやればそれを予知し、身を守れるかを考え行動することにこそ意味があり、実際我々はそう行動している。戦争というものに対しても、同じような角度でのアプローチが必要ではないか。

 

 戦争が自然災害と違うのは、それを引き起こす主体が人類であるという点である。人類は何故、どういうメカニズムで戦争やテロリズムという蛮行に至るのか。

 

 その大きな原因の一つが、経済的困窮だろう。さらに自らの尊厳が損なわれれば、命を賭してでもその状況を脱却しようとし、自分たちを貶めた相手を徹底的に叩き潰そうとするのも、ある意味無理はない精神反発かもしれない。ナチズムはそうやって生まれた。ISも同じなのだろうか。

 

 そこに加害行為の連鎖がある。きっかけは、まだ平時と思える段階に育まれる。ある集団が、自分たちが信じる正義を突き詰め、己を利せんとする“イノセント”な行動が、別の集団を深刻な困窮と屈辱に貶めることがある。

 

 戦争やテロ行為に及んだ主体の罪は微塵も許されるべきではないが、その者を戦争やテロ行為に至らしめた周りの責任もまた、問われるべきではないか。我々は往々にして、一方的な被害者になりたがるが、それは違う。

 

 人類も生き物なので、困窮し自らの生存が脅かされれば、同じ種の仲間を倒してでも生き延びようとする。人類が生き物と異なる部分は、尊厳の侵害に対する怒りや、イデオロギーの信奉による他者の敵視という理性的感情を持つ点である。そのことが、自らの生存確保に必要なレベルをはるかに上回る暴力と殺戮をもたらすが、人類はまた、それを回避させる叡智というものも持っている。

 

 戦争やテロリズムは、人類という集団的生き物が発症する精神病理の一種といえるかもしれない。出来るだけ未然にその病症に気づき、然るべき施術で、その発症を最小限に抑える。民族感情や国際関係力学に対する医術のようなものがあってもよいのではないかというのが、自分がずっと考えているテーマである。





2019年11月

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