アシエンダと「風と共に去りぬ」
タスコの観光を終えた後、僕らはココヨックという小さな町にあるホテルに泊まった。ホテルの名前はHotel Hacienda Cocoyoc。アシエンダとは、いわゆる荘園のことで、ココヨックとは、地元のインディオの言葉でコヨーテの住む地という意味らしい。クエルナバカの西方に広がる広大なこの土地は、16世紀以降サトウキビのプランテーションが盛んで、その領主のかつての館と庭園が現在ホテルとして利用されているという訳である。中世の建築物をホテルに転用したものとしては、スペインのパラドールが有名だが、スケールとしてはこちらの方がずっと大きいと思う。下記に紹介するHPをご覧いただければおわかりの通り、旧領主の館や砂糖工場を利用したレストランとその周りに建てられた宿泊施設を中心に、プールあり、ゴルフ場あり、乗馬クラブありと、エンタテイメントも充実している。
http://www.cocoyoc.com.mx/cocoyoc_eng/index.php 規模は様々だが、メキシコにはこうしたアシエンダが今でも多数存在する。これらのアシエンダを見る度に、僕は、映画「風と共に去りぬ」のことを思いだす。スカーレット・オハラの激しくも美しい生き方で有名な映画だが、南北戦争時代の南部アメリカが舞台になっており、その時代の歴史的出来事を象徴する物語としても非常に面白いと思う。確か映画の冒頭のナレーションで語られていたと思うが、当時の南部アメリカに存在した大地主制や貴族社会、そこに生きていた男達の騎士道や淑女達の世界、黒人奴隷の存在、主従関係、そういった諸々のものが、南北戦争での南軍敗北という時代の嵐に揉まれ、全ては風と共に去り過去のものになってしまったというテーマが、この映画のベースになっている。映画の中で冒頭出てくる貴族達のパーティーのシーンは印象的である。娘たちはコルセットのドレスを纏い、昼間の会食の後午睡をして夜の豪奢なパーティに備える。若い男達はパーティで出会った娘を口説き、彼らの間で騎士道的な恋の鞘当てがあったりする。 僕がメキシコのアシエンダを見ていつも思うのは、この国には結局「風」は吹かなかったのではないかということである。米国は、南北戦争という洗礼を経て、現代の高度資本主義社会につながって行く近代への脱皮を遂げたのではないか。そのエッセンスは、すなわち「庶民化」ということであろう。かの地では、中世的な価値観や生活のリズムは、全て風と共に去り、完全に過去のものとなった。日本の封建制も、明治維新から西南戦争を経て、過去のものとして葬り去られた。(奇しくも、米国の南北戦争も、日本の西南戦争も、両国にとっての”The Civil War”である。)このメキシコにも革命や改革はあった。それでもなお、それらは過去を吹き飛ばす「風」ではなかったのではないか。このメキシコでは、アシエンダそのものにスカーレットやアシュレーのような男女が今でも住んでいるわけではないが、あの映画の冒頭で描かれていたようなソサエティ、あの時間の流れや人生観といったものが、アシエンダからは切り離された別の場所で、未だに厳然と存在しつづけている。今でも、この国の高級ゴルフクラブに行けば、金持ちとしてのステータスを生まれながらにして保証された人たちが集い、そうした人たちだけのソサエティを形作っている。おじいさんの代、お父さんの代、子供の代と、ソサエティ内の付き合いは世代を超えて受け継がれる。若い男女はそのソサエティの中の適当な人物と恋に落ち、やがて家庭を持つ。生まれた子は、生まれながらにしてそのソサエティへの所属と、その子の次の世代にまで受け継がれる富の享受が保証されている。彼らだけが参加するパーティがあり、彼らだけが住む家、彼らだけが乗る車がある。そういう「優雅さ」が、21世紀の今日においてなお、この国には存在する。 これはその是非の論議では無い。それがそこに存在するという事実認識である。メキシコの中央高原には幾つかの火山があり、ユカタン半島には美しい砂浜があるという事実認識と同じである。そして、この事実認識は、ひとつの推測につながる。メキシコにおけるこうした「中世的」なものは、これからもずっと存在し続けるのではないか、僕は、何故か強くそう思うのである。