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正露丸ぶちまけ事件


「正露丸ぶちまけ事件」については、やはり一筆書いておかねばなるまい。事件というほど大げさなことではないかもしれないが。  転勤の度にそうなのだが、撤退戦の最後は壮絶を極める。関係者へのご挨拶、マイカー売却、引越荷物搬出、手荷物パッキング、アパート引き払い、ホテルへのトランク類のピストン輸送、等々。表番組の業務引き継ぎの裏側で綱渡りの攻防が続く。火事場のような状態になるので、パスポート等の重要書類は絶対に他に紛れ込まないところに隔離して置かねばあとで大変なことになる。  そんな火事場の仕分け作業のさなかで、棚に並んでいた常備薬の一部を、「これは自分の携行荷物に入れとくかな。」と思い、ぽいぽいとトランクの中に放り込んだ。かゆみ止め、プロポリス、新ルルエース、三共胃腸薬、そして正露丸である。  アパートを撤収してホテルに入り、家族を帰国させ、後任を迎え入れ、さあ業務引き継ぎだという段階で自分のビザにロシア領事部の手違いでスペルミスがあることが発覚し、急きょパスポート差し戻し、赴任行程変更というどたばたになった。  なんとかかんとかビザを取得し、当日夕刻に取ったフライト予約でその日の深夜便に飛び乗ってモスクワに向かうというあわただしさ。束の間入ったアムスのホテルの部屋で荷物の最終パッキングをしようとした。  今回の赴任に際し買った最新式のトランクを開けると何やら妙な匂いがする。時間もせっていて気持ちも焦っているので、最初は本能が発し続ける危険信号を無意識に黙殺し続けていたのだが、尋常ではない匂いにふと我に返った。気が付けば、既に部屋いっぱいにその匂いが充満している。 「正露丸?」  でも何故?どこに?あまりのばたばた作業だったので、暫くは前後の因果関係を理解できずにいた。やがて、その匂いの発信源がどこにあるのかと、何故それがそこにあるのかが自分の頭の中でようやく理解できた。  蓋が緩んでいたのだ。時すでに遅く、溢れ出た漆黒の玉の群れは、さながらパチンコのフィーバーのようにその場にひしめき合っていた。  トランクを物に詰める際に、できるだけ物品ごとに袋に入れるようにしていた。件(くだん)の正露丸も、他の薬と一緒に、かつて自分がバイクライダーだったころに使っていた登山用の分類袋に入れていたので、パチンコフィーバー状態はその袋の中だけで納まったのがせめてもの救いである。  それにしても正露丸の匂い恐るべし。自由を謳歌していた玉々の皆様には早々に瓶の中にお戻りいただいたのだが、トランク内部にはばっちり彼らの匂いがついてしまった。そのトランクを持ち込んだモスクワのホテルの部屋でも、外から帰ってくる度に正露丸の匂いがほんのりと漂っていることに気づかされる。  ちなみにこの正露丸、ご存じの方も多いと思うが、もともとの表記は征露丸である。露の字はロシアを意味する。そう、日露戦争のころ、戦地の水が悪く腹を下す兵隊さんのために開発された薬なのである。ラッパのマークは突撃ラッパである。  ロシア市場を征すという意味では縁起のいい話と捉えるべきか。まぁ、この際だからそうポシティブに解釈しておこうと思う。


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