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黒船

歴史学科卒業で東洋史を専攻していたうちの事務所のロシア人同僚(女性)からこんなことを聞かれた。  「在学時代、ゼミの教授が『幕末に日本を開国させたのがアメリカだったのは日本にとって幸運だった。それがもし植民地支配に長けたイギリスやフランスだったら、日本もインドや中国のように植民地化されていたはずだ。』と言っていたけど、それは本当ですか?」  それは違うだろう。どの国によって開国させられたにせよ、日本は植民地になることはなかったと思う。どれだけ国論を二分する論争があっても、我々の先人は、国外勢力とは与せず、自分たちのことはあくまで自分たちで決めようとした。技術にせよ制度にせよ、国外から何かを導入することはあったとしても、最終的にはそれを自らの手で賄うことに拘った。  自分達のことは、自分達で完結させる。当座の国力や軍事力が劣ったとしても、そういう気概がある国を植民地化することは難しいはずである。 要するに、ペイしない。  実際、当時のイギリスやフランスには、当時の国際情勢下ではほぼ当たり前の政治意図として、あわよくば日本を半植民地化したいという腹はあっただろう。事実、イギリスは薩摩を中心とする討幕諸藩に、フランスは幕府に接近したが、倒幕側も幕府側も武器や技術の供与以上のことで彼らを頼ることはなく、英仏ともにそれ以上の利権を得ることは出来なかった。  ちなみに、冒頭の質問に関し、日本の鎖国の扉を誰が開けさせ得たかについては、確かにアメリカはダークホースだったようである。当時アメリカはまだまだ新興国家で、カリフォルニアにしても、ペリーが黒船で日本に乗り付けるわずか10年ほど前にメキシコから割譲したばかりだった。世界の列強の力関係と極東における勢力の拮抗具合からすれば、日本に開国をせまり得たのは、イギリスか、フランスか、さもなくばロシアであった。  では何故、その三国ではなくアメリカだったのか。それは、当時、英仏露の三国は戦争の真っただ中で、日本に対する砲艦外交を行っている余裕がなかったからである。  その戦争とは、クリミア戦争である。戦闘の中心はもちろん黒海北岸のクリミア半島であったが、英仏露の三国は、カムチャツカ半島でも戦闘を行っている。  江戸時代において既に、広大なユーラシアの向こう側での情勢が我が国の命運に影響を及ぼしていたという事実に驚くばかりであるが、国際情勢というのは、かくの如く、洋の東西を超えて繋がり合っているようである。


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