イルクーツク
いい仕事をしなきゃなと思う。それは、たくさん仕事をするということとは少し違う。そして、いい仕事をするためには、いい仕事が出来る状態に、自分を整えておく必要がある。いい仕事の質とレベルを高めていこうと思ったら、そういうことがより重要になってくる。 自分の中にある未消化の何かが、時々悪さをする。そいつを上手く組み伏せなければと思う。ということで、あちこちほっつき歩いて回っている。なんだか、風が吹けば桶屋が儲かるみたいな論理飛躍があるが、それでいいのである。 イルクーツク。地理的にも、経済・文化面でも、シベリアの中心に位置する人口約60万の街である。帝政ロシア時代、ロマノフ王家と貴族にとってのシベリアは、その地に跳躍する獣の毛皮を獲って集めるための広大な猟場であり、シベリア総督府が置かれたこの街は、その毛皮回収機構の要を担う国家的拠点であった。 同地は、流刑貴族が流された場所でもある。帝政を否定し、近代化のためのクーデターを企てた青年貴族、すなわちデカブリスト達が、このイルクーツクに流されてきた。後にその妻たちも後を追ってやってきて、ささやかながらもこの地で貴族生活を営んだ。そのことが、この地に西欧文化をもたらし、街はシベリアのパリと呼ばれた。 ロシアの東方開拓の中枢であったイルクーツクは、その機能の一部として、東方の果てにある日本という国と取り引きをするための調査機関のような役割も担った。江戸時代の中期に、この地には日本語学校があった。ロシア中央政府は、オホーツク海や千島・カムチャツカで日本からの漂着民を発見した場合は、それを保護し、中央に対して然るべき報告をなすよう、現場に指示を出していた。 発見された日本漂着民は、このイルクーツクに連れてこられ、日本語の教師とさせられた。ロシアは、その可憐ともいえる努力と熱意でもって、当時鎖国体制下にあった日本との交易の門戸をなんとかして開こうとした。そのことは、司馬遼太郎の「菜の花の沖」と井上靖の「おろしあ国酔夢譚」に詳しい。 6月半ばのイルクーツクは、連日25度の真夏日であった。かっとした日差しが照りつけ、女たちは皆、Tシャツにショートパンツで街を行き来していた。戦争で何もかも破壊しつくされたカリーニングラードやヴォルゴグラードとは違い、街には、1900年代初頭からの古くて低い建物が数多く残っていた。木造の建物も多かったが、その殆どは、夏季に凍土が溶けて地盤が緩むせいか、棟が大きく傾き、その床と壁の一部を地中に深く沈ませ、それでも中に人を住まわせていた。 イルクーツクの街の趣きはウラジオストクに近い。すなわちそれは、函館や札幌にどこか近いということでもある。周りの自然の景色も含めて、シベリアとモスクワの街のあり方は全く異なり、むしろ北海道との親和性の方がまだ高いような気がする。街を行く車の殆どは、ウラジオ同様、日本の中古車だった。 ウラジオで見た、日本との、特に北海道との親和性が、このイルクーツクまで及んでいることを知り、自分の世界観、歴史観が少し変わった気がする。それは、基本的には気候区分の問題なのだろう。しかし、それに立脚した人々の生活や心の機微、日常生活に近い経済も、気候と地勢に連動してある種の同一圏を形成するのではないだろうか。 シベリアから見たモスクワは余りに遠い。逆もまた然りである。この苦悩は、ロシア側は江戸時代からずっと感じていた。暖かな海域に島々を浮かべ、ほぼ手の届く範囲を国土とする日本は、そのことを知らなかった。今も、知らずにいる。日本とロシアの関係のあり方を考える上で、このことは重要なポイントではないかと思う。 イルクーツクの空港で、18時半発のモスクワに戻る飛行機に乗る少し前、携帯のskypeから神戸の自宅に電話をかけた。時差の無い自宅では、日曜参観に行った妻と娘が帰り道での買い物を経てちょうど家に戻ったばかりで、息子は塾に行っていなかった。 妻は、「今帰ってきた。もう少し後で電話で話そうと思っていたんだけど・・。どれぐらい後に話しが出来そう?」と僕に聞いた。僕が電話をかけたのは、ターミナルから搭乗機に移動するバスの中だったので、それ以降は5時間以上電話はかけられない。 そのことを伝えると、妻は、恐らく自分の部屋で着替えでもしていたであろう娘を電話口に呼び出し、僕と話させた。何か父の日にふさわしい言葉でも聞かせようと娘に代わってくれたようだったが、結局娘はもじもじしたままで何も言わなかった。搭乗機へ向かって滑走路の脇を走るバスから見える空には、広がりつつある雨雲が見えた。 今日は娘の学校の父親参観だった。5年生の父親参観は、父たちと娘たちで学校の敷地内にある雑木林の間伐を担当するのがその学校の恒例のようで、妻が自分の代わりにそれに出るのだということは以前から聞いていた。どうだった?と聞いた自分に対し、それまでただ「うん」「うん」とだけ答えていた娘は、「えー。疲れたー。」といった。そりゃ疲れたろう。妻も娘も。 イルクーツクは、モスクワから日本までのちょうど半分の位置に当たる。或いは、少し無理をすれば、この4連休に日本に帰れたかもしれない。でも、モスクワに戻るJAL便に乗るためには日曜の朝6時には家を出なければならず、結局父親参観には出られない。月曜成田発のアエロフロートで帰るプランも組めたかもしれないけど、週明けにはそれなりに仕事もあるし、やはりそれはあまり現実的ではない。その瞬間に日本にいたいと思っても、やはりそれはどうしようもない。 ちょっとした日本の3連休でも、同じように歯がゆく思うことがある。子供たちのクラスの友達が皆近場に小旅行に出かけるのに、我が家にはそれがない。子供のことも妻のことも不憫に思うが如何ともしがたい。 仕方が無い。それが海外単身赴任というものなのだ。 そんな時に一人できままに旅行なんかしてていいんだろうかと思わなくも無い。しかし、家で悶々としてても家族の足しになるわけではないので、時間は有効に使おうと思う。実際、この4日間、充実した休暇だった。こんな大冒険をしたのは独身時代以来だったのではないか。 てなわけで、ちょっとした大旅行もこれで終わりである。週明けから再びお仕事である。いい仕事をしなければね。シュアでいい仕事を。