top of page

五月晴れの日、記念碑に集う


 自分が小学校2年生になった春、僕ら家族はこの地に引っ越してきた。山を削って出来た、遥か彼方まで広がる平地に、まるでコロニーのように、ひとかたまり、またひとかたまりと団地が出来ていった。神戸市西部に出来たその開拓地は、当時須磨ニュータウンと呼ばれていた。  自分が転校してきた小学校の教室の窓からすぐ向こうに見える山肌のあちこちに、野生のツツジやサツキが赤やピンクの綺麗な花を咲かせていた。新緑と青い空。自然の少ない大阪府吹田市の旧市街から引っ越してきた自分は、ここはなんて綺麗で素敵な場所なんだろうとおもった。  山の上の台地にある住宅地から谷に降りていけば、昔からの村の面影を残す集落と田んぼがあった。野球よりも野山を駆け回っているほうが性に合っていた自分は、夢中になってザリガニ釣りやフナ釣りをしたり、クワガタを採ったりした。

 両親は、ともに長崎県佐世保の出身で、もともとこの地には縁もゆかりもなかった。「新婚旅行で神戸を訪れた時、六甲山から街を見渡して、素敵な街だけど自分たちがここに住むことはないだろうと二人で話した。まさかこんなところにマイホームを持つとは・・・。」と当時両親がよく言っていた。タンスの上に置いてあった、父母が新婚旅行の時に使った緑と白の御揃いのトランクと併せて、その両親の会話を印象深く覚えている。  その年の春から、実に38年になる。このニュータウンの中で一度家を移したものの、今日に至るまで自分の実家はこの地にある。大学を出て社会人になった時にこの街を離れ、以後ずっと他所を転々としているが、自分にとって、この地が故郷であることに変わりはない。  父が膵臓癌で突然他界したのが、自分がアムス在住中の2010年5月のことだったから、あれからもう4年になる。父の葬儀が行われたのも、こんな五月晴れの日だった。  良く晴れた昨日の日曜日。サツキやツツジが咲く、かつてのニュータウンを見渡す丘の上に設けた墓所に、父の遺骨を納めた。あの時の5人家族が、今は、墓所に入る父を含め、3家族14人になっている。  佐世保ではなく、ここに父が眠るようになったことは感慨深い。墓所というよりそれは、開拓民として旗揚げをした父とその一族の記念碑のようだと思った。この日が晴れで、本当に良かった。


特集記事
後でもう一度お試しください
記事が公開されると、ここに表示されます。
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page