Бункер 42(Bunker 42)
モスクワのタガンスカヤという一角の地下60mにある核シェルターを訪れてみた。施設の名を、”Бункер 42(Bunker 42)”という。 軍人が案内するツアーでしか、中を見ることが出来ない。今回は、旅行会社の企画で日本語訳が付くということで、たくさんの日本人のモスクワ滞在者がツアーに参加した。通訳者は、ロシア人のおばあさんだった。 地下の施設の奥には、当時実際に機能していた核発射装置があり、希望者を募り、実際に核発射のシュミレーションをやってみるという企画もあった。 モスクワが核攻撃を受けたとのアナウンスが流れ、反撃命令が出される。発射装置の前に座ったものは、指示に沿って鍵を回し、核発射のボタンを押す。 上部のスクリーンには、緊迫する米ソの指令本部、次いで、アメリカの穀倉地、ソ連の軍用施設双方から発射される弾道ミサイルが映し出され、その弾道ミサイルの各々が、目指したターゲットであるワシントン、そしてモスクワに到達する。 弾道ミサイルが着弾し、爆風と炎で焼き尽くされる街と人々の生活。その精巧なCGが映し出される。モスクワの街が壊滅した、とのアナウンスが流れる。相手国の発射から着弾まで、約30分である。 実に衝撃的であった。そのシュミレーションが終わった後も、重苦しい緊迫感が、会場に漂った。 ウクライナ危機の真っただ中。クリミアでの住民投票が行われ、アメリカとロシアが、冷戦終結以来の緊張した日を迎えているこの日曜日に、期せずして、この施設を訪れることになったのはなんとも感慨深い。 クリミアに関する言及は、軍人からも通訳のおばあさんからも一切なかった。モスクワの街も、いつもと変わらない日曜日である。 地下に潜る前に、軍人が施設の概要を説明し、それをロシア人のおばあさんが日本語に訳した言葉がとても印象的だった。 「コウシテ ココハ ヤクメヲ オエ、 ハクブツカンニ ナリマシタ。アメリカトノ ツメタイセンソウニ ササゲタ ハクブツカン デス。」 地上に出ると、ひと月以上ぶりに雪が積もっていた。うっすらとした雪が、核の冬を連想させた。両大国の抜き差しならない対立が、過去のもののままであることを、祈るばかりである。
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“JK 21. Can you hear me?” 自分が、その切ないコールサインを耳にしたのは1983年の夏だった。その夏、自分は中学校3年生で、2年を過ごした中東から春に帰国し、中1、中2の2年分の遅れを取り戻しての受験勉強で、いよいよ待ったなしの全力疾走に入ろうとしていた頃だった。 夏休みも終わりに近い暑い午後、受験勉強をしながら聞いていたFMから流れるその歌声に、ふと耳が停まった。曲のタイトルは、「2001年」。歌っていたのは、織田哲郎という当時聞いたことのないアーティストだった。 時は2001年、核戦争後のシェルターに一人残された男。切ないメロディと独特の歌声に、何か他と違うものを感じた。エアチェックしたその曲を、自分は何度も聞いた。 宇宙戦艦ヤマトの冒頭にも、放射能で汚染された地表を逃れ地下都市に住む人々が、都市間で安否の確認をしあうというシーンが確かあった。出力が衰え、やがて交信に応えなくなる都市。ひとつ、またひとつ。そういう恐怖は、半分はSFだったとしても、もう半分では、実際に起るかもしれないという感覚が、当時の人々には、あったように思う。 実際、1983年の夏も終わり切らない9月1日には、ソ連空軍機による大韓航空機撃墜事件があった。ソ連は、西側から見れば、得体のしれない恐怖の国だった。 それから10年を経た1990年代前半、織田哲郎は、ZARD、DEEN等のプロデュースを中心に大ブレークを果たすが、その頃既に、ソ連という国家は地図から消えていた。彼が歌った2001年より10年近くも前に、核シェルターの世界は、かつてのリアリティを失いつつあった。 モスクワのタガンスカヤという一角の地下深くには、今でも核シェルターがあって、それが一部公開されている。正に1年間の今頃、子供たちの受験のために帰国間際となった家族と、「半年だけ住んだモスクワで最後に何を見ておくべきか。」と話して、この核シェルター内にある冷戦博物館に行こうと決めた。ツアーの予約までしていたが、子供が熱を出して結局いけなかった。 期せずして今週末に、そのタガンスカヤを訪れることになった。そこを訪れる前に、1983年の夏に聞いたあの曲のことを、記録に書き留めておこうと思った次第である。 ちなみに今回、この手記を書くにあたっていろいろ調べる中で、新たに知ったことが幾つかあった。「2001年」が、織田哲郎の実質的なデビューシングルであったこと。そして彼が、13歳の時に父の仕事の関係で英国に渡り、15歳で帰国していたこと。 Wikipediaの彼のページには、「中学3年でイギリスから帰国後、帰国子女という事で、孤立し自殺まで考えたが、エルトン・ジョンの『Your Song』を聞いて心を救われた。」とある。 「2001年」が、何故あんなに切ない曲だったのか、少しわかったような気がした。 同じ境遇であった自分が、正に帰国した中3の年に彼のシングルデビューを聴いていて、それから30年を経てその事実を知ったというのも、何とも奇遇なものである。(2014年3月16日)