おろしや国極東譚
三重県の白子(しらこ)という海辺の町で一夜を過ごしたことがある。メキシコから帰国してまだ間もない頃だった。四日市港に着いた外航船を早朝から見るため港の近くで前泊しなければいけなかったのだが、どんな経緯だったか、泊まった宿が白子という小さな知らない街のビジネスホテルだった。夜ホテルに荷物を降ろして近くで夕食を食べようと外に出たら、路地裏まで磯の香りがしていた。日本に帰国して初めて嗅いだ海の匂いだった。ついこの間までメキシコにいた自分が今は三重の小さな浦にいるということに妙な感慨を覚えた。
井上靖の「おろしや国酔夢譚」を読んだ。主人公、大黒屋光太夫はこの白子の出身である。廻船の沖船頭であった光太夫は、天明2年(1782年)の12月、自らが操る神昌丸で白子から江戸へ向かう途中で時化(しけ)に遭い、舵が折れた船で15名の乗組員とともに遥か外洋へと流されてしまった。彼らは7か月に渡り海を彷徨った後、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。アリューシャンは現在は米国アラスカ州であるが、当時はアラスカ本土も含めロシア領であった。
アムチトカは立木すらない厳寒の島であったが、そこにはロシア人の毛皮役人がいた。彼らは、本国派遣の役人として原住民たちに過酷な毛皮の取り立てを行い、何年かに一度やってくる毛皮回収船に集めた毛皮を積み込み、自らも後任の役人と交代し本国に帰るのである。このような毛皮収奪網は、広大なシベリアからカムチャツカ半島に及び、さらには樺太、アリューシャン、千島の諸列島、そしてアラスカ本土にまで張り巡らされ、全ては西の果てのロシアの中央政府からの指令のもとに動いていた。
集められた毛皮は、バルト海を経て西欧に輸出され、貴婦人たちの纏うコートして多額の外貨をロシアにもたらした。当時のロシアの外貨収入の実に3分の1が毛皮によってもたらされていたのである。毛皮は、ロシアの近代化とロシア貴族の栄華のためになくてはならない「資源」であった。その資源を得続けるためには、毛皮獣を獲るための広大な猟場と、そこに移植される収奪組織が必要であった。当時のロシアは、農耕には適さずそのため主権国家も存在しなかったシベリアの凍土を、無人の野を行くように押し進み、東へ東へと自らの版図を広げていった。
その領土がついに大陸の東端まで行きつきロシアがオホーツクの海を得たとき、彼らは、その南方の島嶼に日本という農耕文明圏があるらしいことを知った。遥か西方のサンクトペテルブルグにあった中央政府は、この、見たこともない日本という国との交易を熱望し、不毛の大地に張り巡らされた自らの毛皮収奪組織の隅々に、もし日本からの漂着民があった場合には帝都に報告し指示を仰ぐようにとの指令を出していた。
時に我が国は徳川10代家治の治世。天下泰平の鎖国の世を謳歌する中で、自分たちの存在をそれほど熱く見つめる存在があるとは、当時の日本人は夢にも思っていなかったであろう。光太夫たちは、泰平の世からの漂流者として、そういう背景のロシアの版図に流れ着いたのである。
既に7か月に及ぶ漂流という翻弄を経ていた光太夫たちは、そのような事情により、アムチトカの島で陸地を踏むことが出来た後も、冷たく広大なロシアの大地と、そこに張り巡らされた官僚組織という果てしのない存在の中を、9年に渡り漂い続ける宿命を課せられたのである。
当時、毛皮収奪組織の中枢はバイカル湖畔にあるイルクーツクのシベリア総督府にあった。この下部組織としてヤクーツク州、オホーツク州等があり、さらにそのオホーツク州庁の下にカムチャツカ管区庁があった。光太夫たちは、このヒエラルキーを上へ上へと辿るようにして、ニジネカムチャツク、ヤクーツク、イルクーツク、そしてロシアの西の果ての帝都サンクトペテルブルグへと、その身柄を移されていった。
絶海の孤島であるアムチトカとは違い、本土であるニジネカムチャツクは国の出先機関もあるシベリア統治の一つの拠点であった。しかし、そこには街とはとても呼べない程度の数の建築物しかなく、人が住むには到底適さない場所であった。その街は、冷たく広大な大地の中で、ヒトという生き物が、わずかに身を寄せることが出来る程度の、実に儚いものだった。シベリアの大地には、毛皮収集のためだけに作られたそんな儚い街が幾つもあり、何千キロもの距離を経て、その街と街の間が橇の街道で繋がれていた。その街に縋って生きる人も、街と街の間の街道を行き交う人も、剥き身の生命としてその過酷な大自然と対峙せねばならなかった。
光太夫の一行は、漂着したアムチトカ島から4年目にして漸く脱出したが、この時までに7人の仲間が命を落とし、15名が8名になっていた。本土のニジネカムチャツクに上陸した光太夫たちは、これで文明の庇護のもとに戻ってこれたと安堵する。しかし、その地の自然はアムチトカ以上に過酷で、光太夫たちは果てることのない吹雪に冬中閉じ込められ、桜の甘皮を煮たものを食べて生きねばならない境遇に陥った。こんなことならアムチトカに残った方がまだましだったと彼らは思った。この地で、2名の仲間が命を落としている。歯茎が腐り、脚が青黒くなって死んだ。壊血病である。
厳寒期に入った12月、光太夫たちは、ロシア政府上層部の指令により、そのニジネカムチャツクを出、カムチャツカ半島から海を渡ってオホーツクに上陸した後、橇に乗ってヤクーツクに行くことを強いられる。道中は、2か月もの間 真冬の原生林の中を行くことになる。自分達の仲間の命を奪ったこの過酷な世界を、危ういながらもなんとかすがるしかない街すら離れ移動しなければいけない自らの運命に、彼らは戦慄する。
極寒の大地では、自分の指も腕も脚も、目も耳も、そして命そのものも、自分自身で守らなければいけない。少しでも油断すれば、今そこにある大自然の猛威が、自分の身体の一部、または全部を、容赦なくもぎ取って持って行ってしまう。橇での移動が決まった時、光太夫は仲間たちに自分の身体は自分で守るしかないのだと声を荒げて諭そうとした。
おろしや国酔夢譚の巻末の解説を書いている江藤淳氏は、この事実認識こそが光太夫たちが直面した幾多の苦難の中でもっとも根源的な経験であるという。
「他人に甘えたり、甘えられたりしていては、個人も集団も存続できない。もし、甘えたり甘えられたりしながら、なおかつ存続している集団があるとすれば、それはよほど特殊な条件が満たされている場合だけであって、これを以て普遍妥当な例とするわけにはいかない。日本の生活には、少なくともこの条件が満たされているような幻想が附着している。」
誠に日本は、その幻想のもとに成り立っている国である。そしてシベリアは、容赦なく広く、そして冷たい。このことは、江戸期も明治も昭和も、そして平成の今でも、本質的には変わっていない。
話しの角度を少し変えたい。
この地で客先のオフィスを訪問すると、応接室にはたいていロシアの大きな地図が貼ってある。最近引っ越しした自分たちのオフィスでも、会議室に同様のロシア地図を貼った。 正距方位図法だろうか。いずれにせよ、メルカトル図法のようにだらしなく横に広がってなくて、ロシアという国土がずっと美しい形に見える。
この地図を見ると、自分はいつも巨大なクレーンを連想する。モスクワから西方からシベリアを抜けベーリング海峡まで届く長い長いアームがあり、その先端にはワイヤーが取り付けられ、東に延びたこの広大な国土を、欧露の中央政府が必死になって吊り上げようとしている。アームの根元のピンの部分にあたるモスクワは文字通り「軸」のような同心円状の街で、そのど真ん中にクレムリンがある。
アームの東の一番先端からは、カムチャツカ半島、そして千島列島という鎖が垂れ下がっていて、その一番先のフックに、鮭のような形をした日本列島があごの部分で引っかかっている。
ロシアの国土は東西に9,000km、経度で言えば160度分である。南北には4,500kmで緯度45度分にあたる。世界の陸地の一体何分の一にあたるのか、いずれにしても、途方もなく大きな国である。
この国にとって東方の広大な領土を維持するのは現在でも容易なことではない。ウラジオストックに出張に行ったとき、沿海地方政府の悩みは減り続ける人口にあると聞いた。皆、モスクワなどの都会に移って行ってしまうのだという。実際、ロシア国民1.4億の実に95%近くがウラル山脈以西に住んでいる。悪名高きシベリア抑留やスターリン時代の強制収容所は、普通の人が住みたがらないシベリアの大地に強制的に人を住まわせるための措置でもあった。
モスクワから久々にウラジオに出張に行った人がAPEC後の街の変わりようをやや興奮して語っていたのが印象的だった。「空港から街までちゃんと舗装された道があるのだ!モスクワと同じ鉄道のエアポートエキスプレスがちゃんとあるのだ!!信じられない。」とその人は言った。ウラジオにしてそうなのだから、シベリア全土のインフラ整備の難しさは想像のしようもない。
光太夫がロシアに流れ着いたとき、シベリアは毛皮の猟場だった。巨万の富に化ける毛皮ではあったが、それを現金に換えるためには遥か西欧の貴族社会にまで持っていかねばならなかった。そればかりか、シベリアで毛皮の取り立てを行う役人の食糧も西方から橇を使って遥々運ばねばならず、その輸送コストと食糧不足が常に毛皮ビジネス上の悩みの種だった。
もし、船を使ってシベリアのすぐ南の文明国である日本で毛皮を売り、代わりに同地でとれる穀物を得られたらどんなに効率が良いか。西方のロシア中央政府は足掻くようにして日本との交易を熱望した。女帝エカテリーナは、光太夫のために勲章を与え、シベリア総督府に対しわざわざ軍艦を手配して彼を日本へ送り届けるよう指示を出す。個人としての憐みも感じていただろうが、最も大きな動機は国益だったであろう。光太夫を送り届ける軍艦には国書を携えたロシア使節を乗せ、鎖国状態にあった日本に交易を迫ろうとした。その対処は丁重を極め、この国が日本との交易にいかに期待していたかが伺える。
もはや毛皮はロシアの主要産業ではないが、この地理的事情は今でもあまり変わっていないのかもしれない。西方から引っ張り上げるのに散々苦労している東方の領土を、東の下の方から押し上げてくれるパートナーに日本がなってくれないか。そういう期待は、現代のロシアにもきっとあるに違いない。
日本にとってもっとも切実な関係にある国はいったいどこだろうか。アメリカ、中国、韓国、或いはロシア・・・。日本人がそのことをあまり身近に感じないのだとすると、それは、その切実さの根本がロシア側にあるからなのだろう。日本にとっての切実さは、自らが及びもしない大国ロシアにとって、自分達のような小国が切実な存在だということである。
我々は決して、弱くあってはいけない。凛として、確固たる存在でなければいけない。ロシアは遊牧民の血と文化的伝統を継承する国である。欲しいものがあり、自らに力があれば、それを自らの手中に収めることになんの躊躇もない。近隣に住む他民族である我々は、その事実を深刻に認識しなければいけない。そのことは、光太夫の時代も、西郷隆盛の時代も、東郷平八郎の時代も、そして今も、ずっと変わっていない。
一方で、ただロシアを恐れ、遠巻きにして気味悪がるのは正しくない。この国が日本に対して求めているものの根本は、交易と友好である。きっとWin/winの関係が築けるだろうとの熱い期待が、そこにはある。
もちろん、外交のことは二国間のインタレストだけでは完結せず、物事はそんなに簡単ではない。アメリカとの関係も、なんといっても大事である。領土問題も含め、どういう具体的な策が良いかを論じる用意は、まだ自分にはない。
今、自分が求めるのは、知り、理解するということである。それがすべての始まりだと、思うのみである。