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おらんだ・ことはじめ「出島の本国」

 東京駅の地下街に一人のオランダ人の胸像があることを、果たしてどれぐらいの日本人が知っているだろうか。彼の名はヤン・ヨーステン。東インド会社の帆船デ・リーフデ(神の愛、慈愛の意味)号で豊後に漂着し、徳川家康のもと、耶楊子(やようす)の名で朱印船貿易家となった。彼が住んだ江戸の一角は、その名にちなんで八重洲と呼ばれ今日に至っている。  慈愛号の日本漂着には、何やら運命の力のようなものを感じざるを得ない。彼女は、希望、信仰、信義、好使命の名を冠した4隻の僚船とともにロッテルダム港を出港した。当時の航海自体がそもそも大きな危険を伴うものであったとはいえ、それにしてもこの艦隊は不幸であった。南太平洋で暴風雨に遭って遭難し、このうちの3隻は、敵国だったスペインやポルトガルに拿捕される等して、乗組員の大半が命を落とした。残った慈愛号と希望号の2隻も船長を失い、残った船員たちはチリ海岸で進退窮まってしまった。 「いっそ日本を目指そう。」  会議の末、船員たちはそのような結論に達する。北上を始めた2隻は再び暴風雨に遭い、希望号は行方不明となる。最後の1隻となった慈愛号も、豊後に漂着した時には、当初110名を数えた乗組員のうち、生存者はわずか24名になっていた。5隻の艦隊でロッテルダムを出発した時の光景を思い合わせるとき、この旅の壮絶さには戦慄すら覚える。もはや、冒険という呼称も勇敢という形容も当てはまらないこの行為を、果たしてどのような言葉で呼べばよいのか。  ヨーステンは、その後オランダ東インド会社の初代日本駐在員となった。このような数奇な運命を経て、日蘭の歴史の幕が開けられたのである。

 慈愛号の豊後漂着が、関ヶ原の合戦があった1600年だったことも運命の一つかもしれない。脱中世の大変革期であった室町末期と安土桃山時代を経て、天下は再び安定を志向しつあり、この関ヶ原をもって、時代は徳川家にその体制整備を委ねた。家康その人は戦国期の変革者の匂いを多少残していたが、彼の孫である家光以降は「権現様の御世」の維持という一点を国家運営の全ての根本に据え、変化を起こしうるあらゆる要因に制度的な抑制を課した。東海道の川に橋を架けさせることを禁じたことも、船に沿岸をやっと航海できる機能しか備えさせなかったことも、全てはその根本方針から生まれている。無論、鎖国もその一つである。以後、約250年に及ぶ泰平の世を我が国は謳歌することになる。  鎖国という言葉を思い浮かべる時、その向こうにオランダの帆船の姿を連想するのは自分だけではないだろう。鎖国は、極東に浮かぶこの島国を制度的土蔵の中に押し込んだが、そこに出島という小さな明かりとりの窓が開けられたことに、歴史としての面白みがある。安定のみを志向するのであれば、国外との完璧な遮断も出来た筈である。しかし、幕府はそれをせず、暗い土蔵の一角に小さな窓を開け、その窓の向こうに立つことを許す相手としてオランダを選んだ。  出島を作った目的は、国防のための国際情勢に関する情報収集、硝薬等の必要物資の入手という趣旨もあったろうが、もっと本質的な動機が他にあったような気がしてならない。それは、好奇心によるものではなかったか。安定と不変を愛しつつも、新しきもの、未知なるものに対する身悶えするような好奇心も併せ持つ日本人。その国民性を、あの頑迷な徳川幕府も捨てきれずにいた。そう見ることは出来ないだろうか。  出島を通じて入るあらゆる情報は、永らく幕府高官以外の手に渡ることが禁じられていた。しかし、享保年間に、時の将軍吉宗が、実学奨励の一環としてキリスト教以外の洋書、すなわちオランダ語書籍が世に出ることを許した。以後、蘭学は、医学をはじめとする自然科学の分野のみならず、合理的思想、自由・平等思想等の社会科学分野においても、江戸期日本の文化の醸成に大きな影響を及ぼすこととなった。

 出島はまた、日本という数奇なる国の、鎖国という数奇なる泰平の時代を、外の視点から見る貴重な窓でもあった。自分の手元に「長崎海軍伝習所の日々」という一冊の本がある。著者はカッテンディーケ。幕末期のオランダ海軍軍人である。キンデルダイクで建造された「咸臨丸」を日本に曳航し、長崎海軍伝習所の責任者として、勝海舟以下の日本の若き幕臣達を指導した。  嘉永三年(1853年)、この国を巡る欧米列強の情勢に鑑み、幕府はついに鎖国を解くことを決意する。権現様の御世を続けることはもはや出来ない。来るべき開国に備えて海軍を創設する必要性を感じ、幕府は、出島のオランダ商館長に相談の上、長崎に海軍伝習所を設立した。カッテンディーケは、この伝習所の第二次教育班の長として幕末期の日本にやってきた。  彼の観察眼と描写は極めて正確である。グローバルという観点では無垢ながら、高い教養と向学心を持つ当時の日本人と、それらの日本人の師として技術指導や政治的アドバイスを行うことに誇りと喜びを感じているオランダ人との日々の交流が、滞在者である彼の手記として実に生き生きと描かれている。例えて言えばそれは、今日の世界で、新興国の工場長として赴任した日本人の良質なブログを読むような感覚で、古い時代に書かれたものという印象を全く感じさせない。  藩侯の招きにより彼らが城下町を訪れると、通りは見物に押し寄せた群衆で埋め尽くされた。藩士たちがこれを制すると、興奮した群衆は草履やウナギをぼんぼんと投げつけ、それがオランダ人達の頭上を飛び交った。「この地(鹿児島)ではウナギが祝いの魚なのだろう。」と彼はその手記に記している。  気候の良い時には、彼らは馬で遠乗りをして日本の風景を愛で、狩りもした。ただ、彼らが狩りに出ようとする場合、どの方面に出向くかを役人に事前に告げておかねばならなかった。その不便さゆえ、「何故事前に通知せねばならないのか。」とカッテンディーケが文句を行ったところ、日本の役人は「通知をしておくためだ。」という。「誰に?」とカッテンディーケが問うと、役人はニヤリと笑い「野兎達にだ。そこを動かないようにと。」と返した。さらにその直後、真顔で「いやなに。オトナ(村長)や村民にあなた達の来訪を事前に連絡して、驚かれないようにするためだ。」と述べた。当意即妙とは正にこのことだと、カッテンディーケはこのユーモアを大いに褒めている。

 長崎海軍伝習所が日本の若き侍達に教鞭をとっていたこの時期、我が国の歴史は激動のさなかにあった。開校3年後には日米修好通商条約が結ばれ、ほどなく安政の大獄が始まった。この時代の激流に押し流されるようにして、長崎海軍伝習所はわずか4年でその栄光に幕を引くこととなる。  「長崎伝習所の日々」の最後の章は、著者カッテンディーケが日本を去り、祖国オランダに帰るまでの道のりが淡々と記されている。カッテンディーケを乗せた船は、長崎沖にて、彼自身がオランダから曳航してきた咸臨丸と、その艦上にあった彼自身の生徒達からの7発の祝砲を受けて日本を後にする。  以後彼は、バダヴィアを経てインド洋を渡り、スエズ運河を超えて地中海を北上した後、イタリアのトリエステでヨーロッパの地を踏む。そこからは鉄道で、オーストリア、ドイツを経て祖国へ帰るのである。彼の活字の中に、アルンヘム(アーネム)、オーベルハウゼンという地名が現れるのを見るに及んで、読んでいる自分も、ドイツとオランダの国境のあの風景が目に浮かび万感胸に迫る思いがあった。 「ああ、これこそ、いよいよ我らが愛する祖国に着いた証拠である。やれやれと安堵の胸を撫で下ろした刹那、この長い旅の間殆ど全く忘れるともなく忘れていた日本の友人たちのことが、図らずも迫ってきた。」  彼は、その長い手記の最後を、そのように綴っている。  カッテンディーケが日本を去ったのと同じ年、出島のオランダ商館も閉鎖となった。以後、日本は、欧米列強各国にその国毎の長所に応じ直接教えを請うこととなる。日本は開国した。土蔵の壁は撤去され、そこに空いていた小さな窓も必然的にその役目を終えることとなった。ヤン・ヨーステンの豊後漂着以来250年続いた日蘭の不思議な関係は、ここに終わりを告げる。  自分が思い浮かべる出島のカピタン(商館長)は、青い目で縮れ毛で固太りな、自分が一緒に仕事をしたオランダ人の顔をしている。  出島。土蔵に開けられたこの小さな窓が我が国に与えた影響は、計り知れない。我々は、オランダと言うかつての恩師に対し、もっと敬意を表してもいいのかもしれない。


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