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おらんだ・ことはじめ「赤線、マリファナ、安楽死」


 アムステルダム市のシンボルマークは赤のバッテン3つである。海外ではバツ印は必ずしも間違いとか駄目なものという意味ではないので、自分はこのアムスのバッテンマークは単なるデザインなのだろうと思っていた。そうではないと自分に教えてくれたのは息子である。学校のエクスカーションで勉強したのだという。  このバッテンは、「セント・アンドリューの十字架」を表し、アムス市民を苦しめてきた3つの厄災に対する護符としての意味を持つ。大火 、ペスト、そして洪水。もう二度と、それらの厄災に脅かされることがありませんように。その切なる願いがこの紋章には込められている。  大火とペストは既に過去のものかもしれない。しかし洪水は、今も、そしてこれからもずっと、この国の脅威であり続けることは免れない。  古今東西を問わず、人の世には、出来れば目にしたくないものというものが存在する。例えばそれは病であり、死であり、人々の心の中に渦巻く煩悩である。それらを忌むべきものとして遠ざけ、見なかったことにするのも一つのやり方だろう。中世以前の世界は、多分にそのような世界観の上に成立していたのかもしれない。  しかし、オランダは、オランダ人が海面下に作った国である。自分の背丈よりも遥かに高いところに海面が存在するという事実を、オランダの人々が「見なかったこと」として済ませることが、果たして出来るかどうか。この国で暮らしていると、その切実な事実認識が、この国の世界観の根本をなしているのではないかと時々ふと思うのである。 「なにしろ私どもは海面下を歩いている。とくに満潮時には国土の半分が海面下になってしまう。荒天時なら、アムステルダムの家々は三階まで海面になる。」  との下りが、司馬遼太郎氏の「オランダ紀行」にある。  オランダに来て3年目に、縁あってアムステルダム・ナイトウォークという奇妙な行事に参加した。悪名高き赤線地区を含む夜のアムステルダムをガイド付きで散策する真面目なツアーである。ガイドはお中年のオランダ人女性。典型的なオランダ女で、辛辣な言葉を独特の愛嬌で淡々と語った。 「男たちは生命を賭した過酷な洋上での長旅を経てここに帰ってきます。満たされなかった欲望を何とかしたいというのは自然なことです。そのようにしてこの赤線地区は生まれました。」  とその女性ガイドは語った。 「オランダ人男性はここでひどく派目を外したりしません。金曜の夜に飛行機で大挙してやってきてMisbehaveするのは英国人男性達です。彼らは、酔っ払ってそこかしこで立ち小便をします。教会の壁にも。私達の教会の壁に小便をかけられるのを、私達は好まない。だからあのような設備を用意したのです。」  女性ガイドが指さす先には、教会を背景に、運河を前景にして縦長のピラミッドのような形をしたコンテナ式の男子用小便器が並べられていた。四方の面の中央付近には小さな穴が開いていて、頂点にはフックが付いていてクレーンで吊り下げられるようになっている。  “Piss hole!!”  と、その女性ガイドは高らかに言い放った。  アムステルダムの繁華街には、マリファナの店があり、ゲイ達が彼らの住まいに誇らしげに虹色の旗を掲げ、教会のすぐ隣に飾り窓がある。この国では、安楽死も認められている。全ては、そこにある現実を目をそらさずに見詰め、その存在を認めた上でそれとどう向き合うかを真面目に考え、その折り合いを形にしたものである。  「世界は神が創り賜うたが、オランダはオランダ人が作った。」との言葉がある。アムステルダム・ナイトウォークの女性ガイドの辛口の説明を聞きながら、何故かその言葉が頭を過った。そういう不思議な高貴さが、この国にはある。


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