top of page

おらんだ・ことはじめ「誇り高き貧食文化」


 オランダのメシはやはり不味い。そもそも彼らは、食うことに喜びを求めるという、我々からすれば万人に共通すると思われる性向を、極めて希薄にしか持ち合わせていない。  オランダ人達のオフィスでのランチ風景を見るのは興味深い。焼いていない食パンにバターも付けずにハムとチーズを挟んで、それをもそもそっと食べて、はいおしまいである。毎日それである。本質的に、口に入って栄養を取れれば食べ物はそれでよいと割り切っているように見える。  オランダ料理というジャンルもあるにはあるが、それほど旨いものではない。珍味という意味では、俵型のコロッケ、塩漬けのニシン(ハーリンという。屋台で買って食べる。これはけっこう旨い。)、サバの燻製(これも意外といける)、皮むきウナギの燻製等があるが、果たしてそれを料理と呼べるかどうか。個人的に、自分はこれらを「オランダのC級グルメ」と称している。  そんなお国柄なので、外国料理のレストランもいまいちである。イタリアンは論外。中華も駄目。日本食はそれなりにちゃんとしたものが食べられるが、ちょっと家族で週末に、というレベルの外食だと、コストパフォーマンス面でもバリエーションの面でも、やはり欧州近隣国に比べると劣ると言わざるを得ない。 オランダと双子の隣国であるベルギーは美食の国である。やはりベルギーに行くと、地元の料理も旨く、日本食も充実してるし、キャンティーンのサンドイッチですらオランダとは比べ物にならないぐらいマシである。なぜこうも違うのか。 そのことは、決してオランダが文化的に劣っているという意味ではない。彼らの文化における「食」の置かれた位置が中央からかなり離れたところにあるというだけである。  確かに彼らオランダ人は、食にあまり拘らない。彼らは、歴史のある段階で、道楽としての食を捨てた。それを捨てなかった双子の片割れがベルギーになった。それが、出張で何度も両国を行き来するなかで自分が持った歴史観である。

ネーデルランドという呼称は、日本語に訳せば「低地地方」という意味になり、ライン川の下流域に位置する広範な平地を指す。国名としてのオランダを指す場合は、前にTheをつける。西洋史を紐解くと、ネーデルランド17州という言葉が出てくる。今の国家区分でいうと、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグのいわゆるベネルクスに、フランス北東部の一部も入る。  極東の島国で、織田信長という風雲児が桶狭間を皮切りに中世という巨大な存在に挑みかかっていた頃、ネーデルランド17州も、カトリックとスペイン・ハプスブルグ家という中世の絶対的権威に対し反旗を翻しつつあった。「八十年戦争(1568~1648)」である。  当時、低地地方の諸都市が織物工業や貿易で発展し、商人を中心に新しい価値観が生まれつつあった。彼らは、自由に世界を行き来することを望み、見たことそのままを客観的に捉え、自ら判断することを望んだ。信仰のみが真実であり、旧来の権威体系に従属することこそが庶民のあるべき姿だとする領主スペインが、この新興勢力を苛烈に弾圧した。  アムステルダム、ユトレヒト、ライデン、アントワープ、ガン(ゲント)といった諸都市は、低地地方の広大な牧草地のなかに海に浮かぶ島のような形で存在する。どの街も周りに堀と巡らせ、街自体が城塞となっている。押し寄せるスペイン軍に対し、これらの諸都市は同盟を結び、それぞれに城門を固く閉ざして抵抗した。  しかし、相手は欧州最大の王家ハプスブルグであり、大航海時代の覇者スペインである。南部ネーデルランド(後のベルギー)は制圧され、スペインの配下に留まったが、北部7州はユトレヒト同盟を結成し、あくまで抵抗を続けた。

彼ら反乱軍は、自らを「ゼー・ゴイセン」、海の乞食と名乗った。乞食党による抵抗に対し、スペイン軍は圧倒的な戦略で猛攻を続ける。1572年、ナールデン全滅。1573年、ハーレム陥落。そして、1574年5月、スペイン軍は、残された有力都市であるアムステルダムとロッテルダム・デルフトの両都市を分断するべくライデンを包囲する。  武器も食料も満足に持たないライデン市民は、それでも籠城を決意し、あくまで抵抗した。ライデンを救うべく、オラニエ公ウィレム率いる反乱軍は、周辺から堤防を徐々に決壊させ、スペイン包囲軍を水攻めにする作戦に出る。海水の下に沈む農地は塩に侵されすべて駄目になる。駄目になった農地が元に戻るまで、農民の生活を保障するための債権を発行した上での作戦だった。  堤防を壊しつつ、反乱軍は対スペイン軍の洪水包囲網を狭めていく。しかし、物資の供給を断たれたライデンでは、飢餓とペストが進行し、多くの市民が息絶えていった。  1574年10月2日、最後の堤防を壊し、対スペイン軍の総攻撃に入ることが、反乱軍の伝書鳩によりライデン市民に伝えられた。市民は、ブリュヒトの高台に退避して、押し寄せる水に備えた。その夜、折からの西風で北海の荒波が包囲軍に一気に押し寄せ、ついにスペイン包囲群は撤退を余儀なくされた。  10月3日、ライデン解放。荒波を蹴立てて、反乱軍の船で食料が運び込まれた。生ニシンとパン。生き残った人々は、生きること、自由を得ることの喜びとともに、そのニシンを味わったに違いない。この食料が届けられたときまでに、既に全ライデン市民の実に3分の1が飢えにより命を落としていた。  この壮絶な歴史を通して、オランダに、食べ物は食べ物であればそれでいいという文化が育まれた。そういっても過言ではないだろう。  彼らが勝ち取った自由は、後のフランス革命とアメリカ独立戦争によってより普遍的なものとなる。しかし、21世紀に行きる我々に至るまで、その後の人々が当たり前のように享受している「自由」の最初のひとかけらは、ライデンによって勝ち取られたといえるかもしれない。  今でも、10月3日には、ライデン解放を祝ってこの街では盛大なお祝いが催されるという。ニシンと白パンが振る舞われ、市長と子供たちが広場で歌う。 乞食党が助けに来るよ 総督のせた船に乗って ニシンにヒュッツポット、白いパン 乞食党が来たよ 乞食党が来たよ 誇り高き貧食の人々。その文化に大いなる敬意を表したい。


特集記事
後でもう一度お試しください
記事が公開されると、ここに表示されます。
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page