証明写真兵
記念すべきロシア滞在記録の第一回は、証明写真撮影についてのびっくりレポートである。引き継ぎのさなか、各種手続きに写真がいるから撮りに行こうということでオフィスの近くの証明写真屋に連れて行かれた。 これまでの10回の出張でも感じていたことだが、現在のロシア、少なくともモスクワ都心部では、如何にも旧共産主義という光景を目の当たりにすることは殆どない。そんななか、自分がかろうじて旧共産主義的雰囲気を感じるものが大通りの地下にある商店街である。 モスクワの大通りには横断歩道はなく、地下道が道の両岸を繋いでいる。歩行者用のたいして広くもない薄暗い地下道なのだが、その壁面に、キオスクのような店構えの商店が並んでいる。一面ガラス張りの壁面にぴったり貼り付けるように商品が並べられ、小さな窓口の奥に店主の顔が見える。昔は、このガラスケースの中に乏しい商品が並べられ、皆がそれを行列して買い求めていた。そんな光景が連想される店構えである。 訪れた証明写真館はその一角にあった。広さとしては一坪(つぼ)ぐらいか。入って右側が撮影用の椅子、左側手前にキャノンのデジカメが据えられ、その奥にカメラとは90度の角度でパソコンと撮影者の作業椅子が置かれていて、20代前半ぐらいのとっぽいロシア人の兄ちゃんが座っている。狭さといい暗さといい、灰色の壁面といい、何やら全般に、潜水艦の通信室を連想させる。 撮影はほんの一瞬。1テイクだけである。顔の傾きを直してとか、前髪を少し上げてとか、そういう指示は一切ない。なんとそれらのすべてを、撮影後のデジタル画像上の補正で対処するのである。 まず、写真全体をぐぐっと回転させる。俺の頭部はこんなに傾いているのかと驚く。そして次は口、両の目の部分だけを「選択」し、角度を直すのである。驚くべきはここから先、なんと、美白加工を施すのである。顔の中で比較的シミの少ない部分を小さく「選択」、そして「コピー」し、顔のシミを目ざとく見つけては、その上にぺたぺたと「貼り付け」していくのである。 その一連の作業を、撮影を受けている者側に向けられたモニターで見られるのだが、その正確さとスピードは圧巻の一言である。カチカチカチと非常な高速で響くクリック音は、モールス信号の打電音のようである。彼が往年のソ連海軍に従軍していれば、優秀な通信兵になったに違いない。 美白の次は増毛である。どういうパソコン機能か知らないが、頭部の一部をぐるっと線で囲み、その端をつまんでぐいっとドラッグすると、むくむくっと髪が増えるのである。ちなみに、我が頭皮の名誉のために言っておくが、幸いのところ、とりあえずまだ増毛が必要なほど髪はさびしくない。 同じ要領でネクタイのゆがみを直し、肩のラインを整える。印刷も含め、全作業終了まで5分かかったかどうか。恐るべき早業である。 一連の作業の一部なのか、一種の余興なのか不明であるが、最後に、出来上がった補正写真と元の写真をぱっぱっと入れ替えて表示させる。およそ別人である。この能力、海軍に従軍しないのなら、彼は日本に来てスタジオアリスかどこかに勤めるべきである。 まったくもう。こんなことならあらかじめダイエットしとくんだったわ。