読了「菜の花の沖」
司馬遼太郎氏著の「菜の花の沖」文庫本全6巻を読み終えた。涙を流すほど感動したという読後感ではない。しかし、これが自分にとって本当に特別な作品であったことは間違いないと思う。自分にとって何かものすごく重い、或いはものすごく重要な主題が幾つも交じり合ってそこにあったような気がする。言葉ではなんとも表現のしようがないが、そういうなにものかを、読み始めから最後までずっと感じ続けていた。 「菜の花の沖」は江戸後期の廻船商人高田屋嘉兵衛の生涯を描いた小説である。彼は、淡路島の東岸、都志浦(つしうら)の貧しい農家に生まれ、船乗りとして兵庫の港に出た後、廻船問屋高田屋の主となった。北周りと呼ばれた日本海航路を主力に商売を拡大した後、蝦夷地航路開拓も積極的に行い、今日の函館の礎を作った。国後、択捉、ウルップ各島の漁場開拓にも尽力したが、当時既に緊張関係に入っていたロシアとの政治的軋轢の波を受け、ロシア船に拿捕されカムチャツカに連行された。 ロシア側が嘉兵衛を連行した理由は、その少し前に、ロシアが日本(即ち当時の江戸幕府)に通商開始の交渉ために送り出した海軍軍人ゴローニンを、日本側が拘束したためであった。日本側がゴローニンを拘束したのは、それに先立ち、ロシア船が日本側の蝦夷、千島の入植地に一方的に攻撃を加え大きな被害が出ていたことをうけ、ゴローニンを拘束してロシア側に国家的な侵略の意図があるかどうかを聞き出そうとしたからであった。ロシア船の暴挙自体は国家ロシアの意思でなく、単に前線の壮士気取りがやった独善行為に過ぎなかったが、鎖国が既に二百年以上続き外国との接触に免疫がなかった当時の日本には深刻な恐怖感をもたらしていた。 ロシアは、もともとは日本の領土を侵食するつもりは全くなく、カムチャツカ、および千島列島でラッコの毛皮を取る商売を続ける上で、日本と交易し食料を入手したいだけだった。ロシアは、複数回に渡り日本に対し正式に通商を申し入れたが、鎖国を理由に日本がこれを断った。日本側とすれば断るしかなかったのだが、ロシア側は何故通商を断られたか理解できず憤った。確かに、日本側の接し方、断り方は、欧州では既に常識であった国際慣習に全く適っておらず、結果的に国家としてのロシアの体面を著しく辱めた。 もともとは双方それぞれの事情があり、相手を辱めたり貶めたりするつもりは全くなかったのだが、小さなボタンの賭け違いがやがて実力行使に及び、疑心が暴力を生み、暴力が疑心をさらに大きくするという悪循環で緊張状態は極限に達していた。 この国家間の緊張の頂点で嘉兵衛は拿捕されるのである。拿捕時に異国船が近づき威嚇発砲したことで、嘉兵衛の船に乗っていた和人・アイヌ人乗組員がパニックになって、多数が冷たい海に飛び込んで溺死した。嘉兵衛は、言われもなく仲間を殺され、自らも捕虜として拘束され連行されることに激しく憤った。が、一転、自ら日本国の代表として外交交渉の当事者となり、日本側のゴローニン開放とロシア側の日本北方不可侵で両国が合意するべく奔走することを決意する。 拿捕したロシア船側の船長は、ゴローニンの盟友リコルドであった。嘉兵衛には、何のいわれもなく突然自分達を拿捕し仲間を殺したロシア側を恨みうる動機があり、リコルドには朋友ゴローニン達を不当に日本に拘束されたという同様の動機がある。また、当時の日露間には満足な通訳などいるはずもなく、言語上の相互理解も困難を極めた。生まれ育った環境と社会制度、そこに立脚したものの考え方の違いも当然あり、それは言語上のコミュニケーション以上に大きな問題だったかもしれない。 しかし、リコルドには、国家的使命としても個人的友情の面においても、ゴローニンの無事奪回は死しても達成したい課題であり、自ら日本の代表たろうとする一方の嘉兵衛にとっても、日本の北辺の安定を得るためにはゴローニンの本国無事送還は不可欠であり、この意味において二人の目的は一致していた。また、二人は、しがらみや権威など何の役にも立たず、頼れるのは己の判断と仲間の結束だけという海と船の世界で自らを磨き上げてきた男たちであった。ぎりぎりの線で事を進めようとする中、二人はやがてお互いを認め合い、魂と魂で対話するようになる。 「わしの人間を見ろ、透き通っているだろう。」 という表現が、二人の心を代弁するように司馬氏によって活字にされている。 二人がどのような紆余曲折を経てその目的を達成したかについては、ここでは置く。いずれにせよ、もはや戦争突入しかないという最悪のシナリオと、津波のような力でそこに流されていっていた事態は、嘉兵衛とリコルドという生まれた国の異なる二人の船乗りの友情によって、天啓のようなその小さな結晶によって、劇的に乗り切られたのである。
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嘉兵衛の生まれた家は貧しかった。「十一にもなって親の飯を食ってはおれんわい。」と、自ら家を出て親族が営む小さな雑貨屋に奉公に行った。その奉公先は、嘉兵衛の実家がある本村ではなく、同じ村の中ながら小川一本を隔てた新在家という別の集落にあった。 当時の日本社会では、同じ村の隣り集落同士ほどなかの悪いものはなかったという。水利問題等で生々しい利害衝突もあったろうが、殆ど理由もなくお互いをまるで異人種のように嫌い、反目しあった。社会構造的なストレスが、そういった形で発散されていたのかもしれない。いずれにせよ、嘉兵衛は、隣集落から出稼ぎに来ているというだけでこの社会的軋轢の間に挟まった小さな小石のような存在になり、その十一歳の一人の少年の身の上で、言われも根拠もない憎悪や謗り(そしり)を全身に受けることになる。それでもとにかく、そこに居続けなければ、そこを追い出されては食っていけない。嘉兵衛はただひたすらに耐えた。 当時の西日本、特に海浜では十五歳頃になった男子は実家を出て若衆宿という組織で寝泊まりし、自治的な共同生活を営むことで一種の社会的訓練を受けるという文化があった。祭りや火事・遭難等の災害対応と、夜の世界での出来事については、彼ら若衆組織が大人組織に優越する権威を認められていた。嘉兵衛は、勤め先であり居住地でもあった新在家ではなく、「故郷」本村の若衆宿に入ることを選んだ。仕事が終わると小川を渡って故郷の若衆宿に寝に帰るのである。子供の頃から何かにつけていじめにあい、道を歩けば石つぶてを投げつけられた新在家の若衆宿になど入りたくはないという思いは当然であった。 しかし、この行為により、嘉兵衛は新在家にさらなる挑戦を突きつけたことになり、より大掛かりな組織ぐるみでの嫌がらせにあうことになった。浜で魚網をつくろっていると、新在家の若衆に後ろから袋を被せられて船の櫓で気絶するほど殴られた。果ては、浜に干してある炒り子を誰かがわざと盗み、それを嘉兵衛のせいだとする狂言まで仕組まれた。「あれだけの貧乏や、盗みとうもなるやろ」と新在家の人々は謗り笑った。嘉兵衛は、死んだほうがましだと思った。 嘉兵衛は、自らの力で炒り子盗人の真犯人を捕らえ、現行犯のまま、その身柄を浜で皆に知らしめた。事実の証明としてはそれで全く正しかったが、このことは新在家若衆のナショナリズムをさらに苛烈なものとした。新在家のマドンナ的存在で、在所の若衆が皆牽制しあって手を出せずにいる網元の娘が、こともあろうに嘉兵衛に懸想しているらしいということも若衆を憤らせた。 嘉兵衛は、炒り子盗難の下手人捕獲で私的制裁を加え、世間を騒がせたとの「罪」で一年間の期限付きながら村八分という極刑を受けた。若衆からの嫌がらせも頂点に達する。嘉兵衛は、若衆の頭目から、村を出て行くことを暗に示唆される。そうでもしなければ早晩嘉兵衛が殺されると思っての助言でもあり、事が荒立って刃傷沙汰に及び、村から下手人が出ることを恐れての村を代表しての懇願でもあった。 嘉兵衛は、村を出て行くことを決意する。「ゆくさき、どうなさる」との若衆頭の問いに、涙を流し嘉兵衛はいう。 「日本人になるしか、仕様がごんすまい。」 人間の幸せのひとつは、故郷にくるまれて暮らすことだと、嘉兵衛は後々まで言ったという。この国では、ひとびとは皆、それぞれが所属する集団の中でスジコのように固まりあって、その生温かい羊水の中で生きている。そこに一反の耕地があれば、自分の居場所があれば、誰が、板子一枚下は地獄といわれた当時の船の世界になど足を踏み入れるだろう。船乗りになってからも、嘉兵衛は何度もそう思う。 ただ、嘉兵衛という一個の人間は、生まれながらにして「あだあだし」過ぎた。自分を含めた物事全てに対して、客観的にその本質を見据え、追究することにこだわり、それ以外のまやかしやごまかしも複雑に絡み合った社会の権威というもの(それは個人に帰属する権威ではない、「世間」というやつである)に対し、恐れ入るということがなかった。この国の社会の根本がそういった権威のもとに成り立っている以上、そして、それを大前提として人々の日々の営みがある以上、どういう境遇で生まれ育ったにせよ、嘉兵衛は、所属する共同体にただ居続けるということは出来なかったかもしれない。 嘉兵衛は、そのようにして海にはじき出され、船乗りとなった。そして、その海のずっと向こうで、リコルド達と出会うのである。
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「菜の花の沖」は、一連の司馬氏の小説群の中でも極めて”渋い”作品ではないかと思う。体面は一応小説ではあるが、その紙面の相当な部分が、江戸期の日本の商品経済と海運、そして、シベリア開拓を経て極東にまで進出したロシアの長い歴史の記述に費やされている。 手元の文庫本の巻末には、「1987年3月10日 第一刷」とある。最初に自分がこの本を読もうとしたのは、恐らく浪人か大学入りたてのころだったのではないか。また、今回何巻か読み進むうち、バルセロナからミュンヘンへ行くルフトハンザの航空券の半券が栞代わりに入っていたのを見つけた。28歳、バルセロナにスペイン語研修で留学していた頃に、この本を読もうと二度目のトライをしたときのものだ。いずれも、嘉兵衛が兵庫に出て船乗りになり、やがて廻船商人として活躍していくあたりまで読んで、そのままになってしまっていた。本だけは、その後もずっと手元に持っていた。 この本は、元は今年他界した父の蔵書であった。父が一度読んで自分が借りて以来、ずっと自分の手元にあった。感じ入った箇所があるとそこに赤のボールペンで几帳面な線を引く父の癖が今でも見られる。父の死と関係があるかどうかまでは定かではないが、自分にとってこの本が、自分がこの年になるまで待って読まれるべきものだったことは間違いないと思う。 思えば、ひとつの作品を読むのに25年近くを要したことになる。改めて、この作品と、これを著した司馬氏、そして、我が父とに感謝の意を表したい。