コペルニクスの憂鬱
「従来からの物事のありかたが最も良い。」という考え方がある。何らかの必然性と合理性があって今の形が出来たはずだから、その考えには一面の理がある。 ただ、外の世界との交流が乏しく純血度の高い組織や、余りにも長く変化がない状態が続いた閉鎖社会においては、この考えが、「世界はこうあるべきだ」とか「これまでの形以外の世界などありえないし、あってはならない」という、もはや信仰とでも呼ぶべき心情に発展するようである。 世界はこうあるべきだと信じている、そのことそのものが真実であり、客観的に見てそれが妥当かどうかという現実は、ここでは意味をなさない。むしろ、客観的な現実を口にする行為は、信仰を否定するもの、自分たちの存在そのものを脅かすものとして、拒否され、叩き潰されるべきものとなる。理屈ではなく、まさに信仰の問題なので、そこには論議というものは恐らく存在しない。 ありたい姿と現実のギャップが大きいほど、そぐわなくなってしまった両者に内心気付いている時ほど、この信仰は、より純粋に、より急進的なものになる。その心境は、殉教者のような甘美な激しさを伴うものなのかもしれない。 洋の東西を問わず、世界の歴史はまさにこの改革者と殉教者のせめぎ合いにあったといえるだろう。ただ、その当事者個々人の生き方という観点で見れば、どちらかが正しく、もう一方が間違っているという整理は、恐らく出来ないだろう。或いは、その人が生まれる時に、改革者は改革者としての、殉教者は殉教者としての主題を持ってこの世に生を受けるのかもしれない。 だとすれば、与えられたそれぞれの主題を如何に全うするかこそが大事なのだろう。