角を曲がると
煙草屋の角を曲がると、そこに毛足の長い白い犬が一匹たたずんでいた。赤い首輪をしていたが、鎖には繋がれておらず、飼い主も見当たらなかった。犬は、僕がそこに来るのを分かって待っていたようだった。 犬はこちらを見ながら、はっはっと彼ら独特の呼吸をしていたが、やがてそのピンク色の舌をしまうと、僕を先導するようにして歩きだした。僕も、導かれるようにしてその犬についていった。 暫く歩くと、神社の鳥居の前に出た。白い石の鳥居で、その向こうには奥の方へ続く白い石畳が見えた。その両脇には、きれいに掃き清められた土の地面があり、並べられた四角い石柱が塀を成し、その外には常緑樹系の低木があった。よくある神社の光景であった。 犬は、鳥居を少しくぐったところで振り返り、僕が付いてきていることを確認すると、再び神社の奥へ向かって歩き出した。 暫く行くと、左手に手水舎があった。どっしりした石の水槽の上に、奇麗に乾かした褐色の竹(青竹ではなかった)が渡してあり、幾つかの金色のアルミの柄杓がその上に伏せてあった。僕はそのうちの一つを取って、龍の口からちょろちょろと流れ出ていた水を汲み、手と口をすすいだ。 犬は、神社の本殿に向かう石畳にちょこんと腰をおろして、例のピンク色の舌をはっはっと小さく揺らしながら、僕のその行為が終わるのを待っていた。 僕が参道に戻ると、犬はまた本殿の方へ向かって歩き出し、僕もそれに続いた。ざりっざりっという、僕の靴が石畳を踏みしめる音が、耳に心地よく響いた。 やがて石畳は石の階段へと至り、犬も僕もそこを上った。そう長くないその階段を上り切ると、僕らは境内のようなところに出た。神社の参道を通ってきたはずだったのだが、趣はお寺のようであった。脇の方には枯れ葉が掃き集められ、白い煙が細く立ち昇っていた。反対側の脇には大きな楠が立っていた。 気がつくと犬はいなくなっていた。そして、ふと見ると、正面にあった木造の建物(それが神社だったのかお寺だったのか、今でも僕にはわからない)の正面の階段に、僧侶のような男性が一人立っていた。僕が気づいたことを知ると、その僧侶は僕に軽く会釈をした。 「ゆっくりしていってくだされ。」 その僧侶は静かな声でそういった。或いは彼は、実際に言葉を発したのではなく、僕の魂に直接語りかけていたのかもしれない。それは、その後の会話についても同じであった。
「なかなか・・・ご苦労をされておる。」 その僧侶のような男性は、ゆっくりと、しわがれた声でそういった。薄暗いお堂のような伽藍の中で、僕とその男(仮に僧侶と呼ぼう)は、向かい合って板の間に座っていた。僧侶の背後の壁面には、大仏のようなものが淡く金色に照らし出されていた。 「轟々たる炎が、お主を包んでおる。」 金色を背にした僧侶の顔は、かろうじて目鼻が分かるぐらいで、その表情までは読み取れなかった。もっとも、全て見えたところで、その表情は、薄暗がりで見るのと殆ど変らないほど淡々としたものだったに違いなかったが・・・。 「お主は、もともと明王の赤い炎を持っておられる。」 赤い炎?なんのことだ。僕はこうして暗く冷たい伽藍の床に座っている。 「しかし、今のお主が焦がされている炎には別なものも交じっておる。怒りが、火虫となって肌を這い、肉を食い破り、貴殿の魂にまで食い込もうとしている。」 怒り・・・そうだ、怒り。 「明王の炎は本来静かで尊いものだ。しかし、火虫は別だ。火虫は、宿主の怒りから生まれるが、やがて己としての力を持ち、周りの怒りを寄せ集めはじめる。そして、宿主の体を這いまわり心を侵したのち、宿主を動かして毒を放ち、周りのものにその種を植え付けようとする。」 僕は、その僧侶の静かな語りを聞きながら、自分が今置かれている状況を理解しようとした。 「かろうじて、お主の中の菩薩がそれをさせまいとしている。逆上した火虫は、出口を求めお主の体を無尽に駆け巡る。明王の炎と火虫の炎が怒涛のように渦巻き、時としてお主を鬼相にする。」 分からない。僕は今、どこにいるのか?何故こんなところにいるのか? 火虫・・・。そうだ、火虫。僕の心にいつの間にか巣くってしまったその存在には、自分にも覚えがある。 「お主、その火虫をどこで拾ってこられた?」 随分前のことだ・・・。もうかれこれ五年はこいつと付き合っているだろうか。 「まあそれはよい。どちらにせよ、ここまで大きくなってしまった火虫はもはや外に出すことは出来ぬ。ましてやお主には明王の炎がある。明王の炎をまとったお主が火虫に憑かれその意のままになれば、辺りの全てを焼き尽くす惨禍を起こすやもしれぬ。」 そうかもしれない・・・。 「だからこそ、わしは使いを出してお主をここへ呼んだ。事の次第ではわしはお主を成敗せねばならぬ。」 果たしてそうだろうか。自分は、自らの意思でここへ来たような気もする。 「ほっほっほっほっ・・・」 僧侶はそういって笑った。彼には僕の心の動きが全て読めているようであった。 「これは失礼つかまつった。お主には言わずもがなの質問でござったな。よろしい、それでは、某(それがし)がその場所まで案内して進ぜよう。」 そういうと、僧侶は袖の中から独鈷のようなものを取り出し、ごとりと自分の前の床の上に置いた。
「お手を・・・こちらに・・・」 僧侶はそういって二人の間の床に置いた独鈷に僕の右手を乗せさせた。そして、失礼、と短く呟いて自分の手を僕の手の甲の上に重ねた。 「今からお主が行かれる世界では、絶対に後ろを振り返ってはならぬ。」 僧侶はそういうと、凄みのある目でぎろりを僕を見つめた。 「よろしいかな。」 絞り出すような声で僧侶は僕にそういった。 「心得ています。」 それが、僕がその場で発した、最初で、最後の言葉であった。 「それでは、覚悟召されよ。」 ノウマクサーマンダー バーサラダンセンダー マーカロシャーダー ソーワタヤー ウンタラター カンマン 僧侶が地の底から湧き出るような声でそう呪文を唱えると、独鈷に押し付けられた僕の手の甲から、ごうっと真っ赤な炎が燃え上がり、僧侶と僕を照らした。 ノウマクサーマンダー バーサラダンセンダー マーカロシャーダー ソーワタヤー ウンタラター カンマン 僧侶は繰り返し呪文を唱え続けた。真っ赤な炎は青白い炎に変わり、激しく燃え盛った。と、その瞬間、僧侶は炎が出ている僕の右手に重ねた手の甲に一気に力をいれ、 えええいっつ、 と、大声をあげた。 その瞬間、ガクンという衝撃とともに目の前が真っ暗になった。或いは僕は、底が抜けた伽藍の床から真っ逆さまに暗闇の中に落ちていっていたのかもしれない。僕の意識は乏しくなり、やがて風にあおられたろうそくの灯が消えるようにふっと消滅した。 気が付いた時、僕は、薄暗がりの中で、冷たい地面にうつ伏せになっていた。 (以上 未完)