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読了「翔ぶが如く」

読了「翔ぶが如く」

司馬遼太郎著、「翔ぶが如く」全10巻読了。西南戦争を描いた作品。城山が落ち、大久保が暗殺された後のこの寂寥感をどう表現すればよいのか。  「とにかく変わらねば」との思いが遂げられた倒幕後の明治初年は、「では何をどのように」について苦悩した時代であった。列強の植民地とならないためには、近代国家としての骨格を持たねばならないが、それがどのような出来姿のものなのかは、実際に欧米に渡航してその中に身を置いてみる以外、当時の日本人には理解のしようのないものであった。  西南戦争は、未だこの国で形として示されたことがない近代国家というものを、生命を賭してでも作らんとする大久保と、その国家建築の要素として何か大事なものを忘れてはいないかとする西郷の、内戦という形をとった最後の「共同事業」だったのかもしれない。  戦端となった薩軍の暴発と、その後の戦局の展開は見るに忍びない。そこには、合理性というものがとにかく圧倒的に欠如している。政治的合理性も、軍事戦略的合理性も、思想的合理性も何もない。ただただ、鎌倉期から磨き上げられ続けた薩摩武士の剽悍さを、溢れ出るマグマのように湧出させ、鎮台兵を切りに切りまくり、しかしやがて官軍の圧倒的な火力と兵力の前に、次第に劣性になっていく。  田原坂の大攻防戦に敗れ、熊本城の包囲を解き、人吉、宮崎と退却を余儀なくされる薩軍は、ついに延岡の北辺で軍事組織としての事実上の壊滅に至る。圧倒的兵力で包囲する官軍を前に、薩軍は兵を解散しつつも、西郷、桐野、逸見以下の精鋭約六白名で官軍の包囲網を突破した後、九州の屋根ともいうべき山脈群を踏破し、既に官軍の支配下にあった鹿児島城下に突入して城山に籠城するという信じられない行動に出る。魔性すら感じさせるこの行為には戦慄を禁じ得ない。  生きて城山に籠った薩軍は三百七十余。これを七万の官軍が包囲し、最後の時を迎える。官軍総攻撃の朝、西郷、桐野、逸見らは、白刃を抜いて山を駆け下りる。薩摩隼人としての最期の突撃。あくまで、非合理でしかない。しかし、この城山での最後の突撃の、その圧倒的な非合理の中に、男子一個の魂を賭して繰り広げる壮大な演武のような行為の中に、言葉や合理性では絶対に説明しえない何事かがあるように思えてならないのである。  明治十年九月二十四日朝、城山籠城軍の壊滅を持って西南戦争は終わる。同年二月十五日、六十年ぶりと言われた大雪の鹿児島城下を薩軍が出立する光景を合わせて考えるとき、この戦争を通して我が国の歴史が大きな角を曲がったことに、深い感慨を覚えざるを得ない。

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薩軍を討つ官軍の苦悩もまた、見るに忍びない。  西郷隆盛の実弟、従道(つぐみち)、そして従弟の大山巌(いわお)は、官軍の将官としてとしてこの戦争に加わった。延岡北辺の和田越において官軍が薩軍に対するとどめの包囲を張り巡らす中、この二人は延岡の本営で茫々として、なすすべもなく互いの顔だけを見合っていたという。  西郷と同じ鹿児島城下加治屋町方限の生まれである東郷平八郎は、この時英国留学中であった。後に、「西南戦争勃発時にもし日本にいたら」と人に問われた時、自分は迷わず西郷軍に身を投じたはずだと彼は言ったという。  官軍の総大将は山縣有朋。長州人ながら西郷を敬慕するところが厚く、城山での総攻撃のその日まで心を痛めていた。  官軍の将官としては、他に、野津鎮雄(しずお)、奥保鞏(やすかた)、そして乃木稀典もこの戦役に従軍している。いずれも、後の日露戦争において、我が国を互角ぎりぎりの勝利に導いた将官たちである。  西南戦争における薩軍の一連の行動に合理性が見いだせないと前項で書いたが、維新後の西郷自身の行動も、それに近いものがある。ただ、太政官政府での政争に敗れ鹿児島に辞去するにあたって、西郷には一つの具体的なプランがあった。  日本は、やがてロシアとの戦争をせざるを得なくなる。西郷は、幕末の段階で既にそのことを想定していた。鎌倉以来鍛錬を極め、疑いなく世界最強の白兵戦力であった薩摩士族団を、西郷は来たるべき対外戦争への備えとしようとした。大久保の近代国家構築ビジョンについて、各論では異をはさみつつも、総論ではそのすべてを大久保に任せ、自らは薩摩士族団の暴発を抑え、来たるべき日に備えようとした。  薩摩士族団が大久保の太政官政府に対する反逆という形で暴発に至ったとき、西郷は膝を叩いてこのことを悔しがったという。しかし、薩摩隼人として既に立ってしまった子供たちを捨て置くわけにはいかず、あとはその身を彼らに捧げ、流れるままに流されていった。或いは西郷は、薩軍の総大将でありながら、心のどこかでは、あくまで大久保の太政官政府を潰さない範囲内で、暴発してしまった薩摩士族団の憂憤の落とし前をつけるつもりだったのではないか。自分にはそのように思えてならないのである。  西南戦争の最期の局面まで、西郷は前線を見ることがなかった。和田越の戦において初めて、彼は前線に立って薩官の戦闘を目の当たりにする。西郷が立つ薩軍本営の丘の手前には泥田が広がっている。薩軍の銃撃と白刃突撃を受けながら、ムシロや空き樽を泥濘に放り込みつつ懸命に進軍してくる官軍を見て西郷はいった。 「見ろあの百姓町人の兵隊の強さを」 「これで外国の軍隊が攻めてきても大丈夫」  とも言ったという。  西南戦争における官軍の死者六千四百。薩軍六千八百。来たるべき有事に備えた実践演習としては、あまりに大きな代償であったと言わざるを得ない。

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西郷がこの世を去って一年を経ない明治十一年五月、大久保その人も凶刃に斃れることとなる。刺客は石川県氏族。暗殺は卑怯であるとして白昼の犯行を計画し、なおかつ大久保本人にその旨を事前に通知し、大久保を刺したその足で宮内庁に出頭し犯行を自供した。  西郷を含む幕末維新の多くの要人が書生団を身辺警護に使っていた中で、大久保は一貫してそのような取り巻きを置かなかったという。 「天が自分を加護してくれるかどうかだけである」 明治に入り、身辺警護の必要性を人から指摘された際、大久保はそう答えたという。 その朝、早朝からの政府高官との対談の中で、大久保はいつになく多弁だった。維新以降の三十年について、彼は語った。創業に値する初めの十年は西南戦争により終わった。その次に来る十年に内治を整えて国力を充実し、その次の十年を守成の時期とする。最初の十年を経て次の十年までは自分が担い、後は若い世代に委ねるつもりだと彼は語った。 恐らく、彼の魂は、その日をもって自分の役割が終わることを知ったうえで大久保という人格にそのように語らせていたに違いない。人はしばしば、末期においてそういうことを口にするのかもしれない。思えば我が父がそうであった。 明治十一年五月十四日、大久保刺殺。 西郷らの死体の上に大久保が折り重なるように倒れた後、薩摩における数百年のなにごとかが終息した。 十巻に及ぶこの作品の最期は、そのように締めくくられている。

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この作品に描かれた西郷や大久保に関わる一連のエピソードを、自分は、単なる美談としては決して捉えていない。この長い作品を読みつつ、自分が最も驚いたのは、薩摩士族団の暴発とその後の顛末に、後の日中戦争や太平洋戦争に見られる暗く重たい蠕動の、その祖形とでもいうべきものが数多くみられるという点である。さらにもっと驚くべきことは、昭和二十年の終戦にまで行き着く諸問題の種の多くが、この時期の大久保太政官政府側において、その苦渋の施策の中から生まれ出ているということである。 西南戦争は、我が国で最大の(そして恐らく最後の)内戦であった。内戦を英語で言うとCivil war、スペイン語ではGuerra civilとなる。定冠詞をつけてThe Civil warといえば米国の南北戦争を指し、La Guerra Civilと言えば1936年から1939年までのスペイン内戦を指す。定冠詞で呼ぶことが象徴しているように、その国の内戦は、その民族の特性や美質、そして心の歪みを如実に映し出す鏡なのかもしれない。 我々は何故そこに至ったか。その問題と向き合うことは、我々がこの先どこに行こうとしているか、どこに向かって歩いていくべきかを考えるうえで絶対に避けて通れない道である。 時代は、この「翔ぶがごとく」から「坂の上の雲」を経て、その後の四十年に突入していく。 司馬氏がついに書くことがなかった四十年。一九〇五年から一九四五年までのその時代は一体なんだったのか。そのことと向き合ってみたいという思いは、自分の中で齢を重ねる毎に深まってきている。現時点では、自分はその時代のことを殆ど何も知らないに等しい。そろそろ、そのあたりを真面目に勉強してみようかと思っている。


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