許されざる存在としての米国人の自己認識
暫く間が開いてしまったが、米墨交通事情対比の話しの続きである。誠に、大地の如き聖母の胸に抱かれたメキシコのクルマたちは、宿命的な大渋滞の中でひとつに溶け合い、天空の見えざるゴッドの手に導かれたアメリカのクルマたちは、人工的に整備された大河のようなハイウエイを、秩序とともに滔々と流れて行くのである。 前回、自分は、米国人が、自らを「決して許してもらえない存在」であると感じているのではないかと書いた。もう2年近くも前になるが、自分がまだメキシコにいた頃、民族毎の「暴力の原型」というテーマで、米国について書こうと試みたことがある。その時書けなかった核心の部分が、この「許されざるべき存在」と表されるものなのかもしれない。 個人でも、民族でも、人は、その心の一番奥底に、神にも通じる至高なるものと同時に、漆黒の闇のように暗く歪んだものも抱えているのではないか。暴力とは、人が、経済的、肉体的、精神的に極度に追い詰められたとき、平時は心の奥底に押し込められていたその歪みが、一気に噴出した際に起こるものと捉えることが出来るだろう。その、内なる歪みと、外なる逆境と、その融合の結果生じる爆発は、一個人として成されることもあるし、小学校のクラスや一民族といった集団として成されることもある。人の心の底で起こっていることは、外からは見ることも知ることも出来ない。しかし、結果としての暴力行為と、その個人や集団をそこまで追い詰めた外的環境を分析していくと、加害者の心の底に眠るものの、おぼろげな輪郭ぐらいは掴めるのではないかと思うのである。自分は、結果としての暴力を責めることよりも、何故その暴力が生じたかを知ることの方に、より深い興味を感じる。 村上春樹の訳書に「心臓を貫かれて」という本がある。著者は米国人のマイケル・ギルモア。殺人を犯した死刑囚として自ら銃殺刑を望んだ兄が、何故そのような行為に及んだのかを、弟である筆者が、曽祖父母の代まで遡って紐解こうとした凄まじい書物である。その深い井戸を掘るような作業は、著者、兄、そして代々の一族が所属するモルモン教が受けてきた迫害の歴史にまで遡り、そこに、兄の死との共通点を見出すのである。この物語を読みながら、僕が一貫して感じ続けたのは、「許されざる存在」としての絶望感と、それでも必死に許しを得ようとする、人々の苦悩の姿だった。僕は、その姿に、強烈に「アメリカ」を感じるのである。以前に書いたKansasの「Dust in the wind」の調べに漂う、暗い闇のような精錬さも、同じ根っこのもののように思えるのである。 重いテーマになってしまうが、ロシア、ドイツ、そして、日本、それぞれの民族の心の闇について、順次書いていきたいと思う。