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恵比寿にて

 彼女と待ち合わせたのはJR恵比寿駅の改札だった。僕は早めに家を出て、待ち合わせの場所に、約束の15分も前から立っていた。初めて会う目印に、僕は、「赤いバラの花を一本持って行きます。」と美奈子さんに約束した。ちょっとくさいかとも思ったが、なぜかどうしてもそうしたいと思った。「いいわよ。楽しみにしてる。私のほうは何も目印をつけて行かないけど、それでいいわね?」と彼女は答えてきた。僕は「いいですよ。でも、きっとすぐに誰が美奈子さんかわかるような気がします。」と返信した。

 待っている間、僕はずっとどきどきしていた。初めての女性とこういう風に待ち合わせるのは、これまでにも結構あったはずだけど、こんなにどきどきしたことはあまりなかったと思う。僕は、彼女を待ちながら、高校生のころ当時の彼女と始めてデートをしたころのことをふと思い出していた。

 「裕也君・・・・。」

 突然の声に呼び止められて僕ははっと我に帰った。気がつくと、僕の斜め前に美奈子さんが立っていた。背は160cmぐらいで長身。すごくすらっとしたスタイルをしている。髪は肩までのストレートで、控えめでそれでいてしっかりとした上品なメイクをしていた。ルックスはかなりの美人だと思う。肌もすごく綺麗だ。35歳ですと彼女が言えば、だれもがそれを信じるだろう。場合によってはもっと若く見られるかもしれない。でも、そうした若々しさというか瑞々しさがある一方で、美奈子さんには、実際の若い娘には絶対無い、冒しがたい大人の魅力のようなものがあった。

「裕也君・・・だよね?」

 彼女がもう一度僕に声を掛けた。

「あっつ・・・。ごめんなさい。そうです。裕也です。」

 僕は緊張してそういった。

「ふふ。嘘つきね。私のこと、きっと分かりますなんていってたくせに。」

彼女はそういって笑った。何て素敵な笑い方をするんだろう。僕は相変わらず彼女に見とれたままそう思った。

僕はすっかりぎくしゃくしてしまっていたが、こんなところでは何なのでということで、二人でガーデンプレイスの方に歩いて行くことにした。僕は舞い上がってしまって、彼女にバラの花を渡すことすら忘れていた。

「旦那さん・・・。お留守なんですね。」

美奈子さんと肩を並べて歩きながら僕が聞いた。

「そうよ、弁護士会の同僚の人たちと箱根の旅館に行ってるわ。あの人たち、しょっちゅうああやって群れてるのよ。」

美奈子さんは遠くのほうに見えるガーデンプレイスのビルの明かりの方向を見たままでそういった。

「奥さんとか、行かなくっていいんですか?」

美奈子さんの横顔を見つめながら、僕は聞いた。彼女はまだ前を向いたままで歩いていた。

「今回もそうだし、泊まりの時はいつも男の人ばかりで行くのよ。どうせ綺麗なコンパニオンのお姉さんとか呼んでいるのよ、きっと。今回見たいのとは別に、婦人同伴の会合もあるし、婦人会みたいなのもあるけど、私はあまり好きじゃないな・・・。」

「旦那さん、素敵な人なんでしょうね。」

僕がそう聞くと、彼女は相変わらず遠くを見たまま、

「そう?そう思うかしら?」

といった。

「そうね。お義父様の代からの名門弁護士事務所の2代目だし、慶応のヨット部出身だし、背もそこそこ高くて、まあ男前っていっても差し支えないルックスだし。確かに、素敵な人ね。」

僕らは夜の帳が下りたスカイウオークを歩き続けていた。美奈子さんのミュールの足音が妙に僕の心に響いていた。

「でも、美奈子さんも素敵な人だから、お似合いですよね?」

僕はお世辞抜きにそういった。本当にそう思う。綺麗で、スタイルが良くて、45歳とは思えない若々しさがあって、それでいて大人の魅力があって・・・。

「ありがと。年下の男の子にそんなこと言われるなんて嬉しいわ。」

美奈子さんは歩きながら僕のほうを覗き込み、いたずらっぽく笑っていった。僕は思わず少し赤面してしまった。

「いえ。本当ですよ。美奈子さんが素敵じゃないなんていったら、世の中には一人も素敵な女性なんていないことになってしまう・・。」

僕はそういった後で、なんてくさいことをいったんだろうと思った。どうかしている。美奈子さんと話しをしていると、何故か僕のいつものペースが乱されているような気がして少しあせった。

「ふふ。ありがとう。お世辞でも嬉しいわ。でも、実際のところ、私にも分からないのよ。自分がどんな程度の女なのか。ずっと女子高育ちだったし、卒業しても父の紹介で銀行で3年ほどOLやって、今の主人と親同士がメインで話しを進めたお見合いで結婚してるから・・・。」

美奈子さんは、背筋を伸ばした綺麗な姿勢で前を見て歩きながらそんなようなことを行った。彼女が話している間、僕はずっと彼女の横顔を見ていた。

「食事・・・イタリアンの店を予約したんですけどいいですか?」

僕は話題を変え、美奈子さんにそう聞いた。ガーデンプレイスとは線路を挟んで反対側にある半地下のとても美味しいイタリアンのレストランを僕は予約していた。

「いいわね。ばっちり。」

彼女は歩きながら自分の顔を覗き込むように微笑んでそういった。なんてチャーミングな人なんだろう。

 ガーデンプレイスまで歩いて行く道すがら、僕は僕自身のことについていくつか話をした。出身地、仕事のこと、僕の彼女のこと。美奈子さんはあまり質問はせず、上品な微笑を浮かべながら僕の話しに耳を傾けていた。

レストランでは、二人共用にカルパッチョとサラダをひとつづつ取って、二人別々にスープを頼んだ。メインの肉料理などは頼まずに、美奈子さんはリゾットを、僕はパスタを注文した。そして、美奈子さんのチョイスでキャンティのワインを1本頼んだ。

 「私たち、どういう二人に見えるかしら?」

注文を済ませた後、二人でパンをワインビネガーにつけて食べているときに美奈子さんが言った。いたずらげな微笑で小首をかしげ、僕の反応を待っている。

「え・・・と。やっぱりカップルに見えるんじゃないですかね。彼氏・彼女か、子供のいない夫婦か・・・そんなところじゃないかな。」

僕は、パンを手に持ったままそう答えた。

「良かった。女上司と部下とか、歳の離れたお姉さんと弟なんていわれなくて。」

彼女は屈託無く満面の笑みを浮かべた。僕は黙って少し首を振った。ありえませんよ。そんなの。ひとつ年上の姉さん彼女にくらいは見えるかもしれないけど・・・。僕は心の中でそう思った。

「それで・・・そのお花はいつもらえるのかしら。」

 僕がそんな考え事をしていると、突然彼女が聞いた。そうだ、待ち合わせの目印に持ってきたバラの花を僕はずっと自分で持っていたのだ。

「あっ。ごめんなさい。えっつ・・・と。どうぞ。」

 僕はテーブルの脇に置きっぱなしにしていたバラの花を美奈子さんに渡した。彼女は何も言わずに微笑んでそのバラを受け取った。そして暫くしてから言った。

「ありがとう。男の人から花をもらうなんて、何年ぶりかな・・・。」

 美奈子さんの言葉は、本当にもう何年もそんなことがなかったように聞こえた。

「旦那さんと出会う前に誰か付き合っていた人はいたんですか?」

僕は何故かそんな質問をした。

「いたわよ。高校3年の時から社会人1年目まで付き合ってたわ。」

 僕は、今の旦那さんの話しより、何故かその彼氏の話しの方を聞いてみたいと強く思った。

「良かったら、その時の彼氏の話しをしてもらえませんか?」

僕は美奈子さんにそう頼んだ。若い男性の店員がカウンター越しにカルパッチョとサラダをサーブした。コルクを抜いていたワインも飲み頃になっていたので、二人で乾杯した。美奈子さんは、ワイングラスを両手で包むようにもったまま、伏目勝ちの視線で、少しずつ、その彼の話しをはじめた。 

 *  *  *  *  * 

パスタとリゾットが運ばれて来るころには、僕らは随分打ち解けて話しをするようになっていた。僕の緊張もだいぶ解けていた。その頃にはワインももう3分の1ほど空けていたように思う。話しは時々途切れたが、間が空いたという雰囲気は全然無く、僕らはワインを片手にその余韻を楽しんだ。

美奈子さんの元カレの話しにはまだ入っていなかった。僕らは暫く雑談を続けていたが、リゾットを半分ぐらい食べたところで、彼女が話し始めた。

「どうして裕也君は、主人のことより昔の彼のことを聞きたがったのかしら・・・。不思議ね、私、このところずっとその別れた彼のことを思い出していたの。もう20年以上も前の話しなのにね・・・。そんななか、ネットであなたのことを見つけて、何故か無性に会いたいと思ったの。ねえ、私、いつでもこんなことする女じゃないのよ。誘われたって断るばっかりでいたし、自分から男性にアプローチすることなんて、多分一回もなかったんじゃないかと思う・・。」

ワインの酔いが回ってきたのか、美奈子さんは妙に饒舌になっていた。

「わかりますよ。」

僕はそう答えた。でも、僕は、その饒舌さが本当はワインのせいではないような気がしていた。美奈子さんが、少しずつ感情の扉を開いて行くのを、僕はどきどきしながら見守っていた。隙間が空いたら、すぐにその中に飛び込んで行きたいと思っていた。美奈子さんは、そんな風にして少しずつ、彼氏との話しを始めた。彼女の話しは映像のように鮮やかで、暫く時間が経った今でも、僕はその細部をありありと思い出すことが出来る。彼女の話したことは、やっぱり彼女自身のモノローグの形で書くのが一番リアルな気がするだから、この日記にもそういう風に書いて行こうと思う。

「さっき少し話したけど、私はずっと女子高だったの。それと、これはまだ話していなかったけど、幼稚園から小学校の4年生までは海外にいたの。ロンドンに4年とパリに2年。両親の考えで、その間はずっと現地の英語の学校に行ってた。パリでもそういうところ、ちゃんとあるのよ。それで、その後日本に帰ってきて中学校から私立の女子高に入って、あとはずっと純粋培養っていう訳。私、本を読んだり絵を書いたりっていう一人の時間も好きだけど、英語のサークルとかテニスなんかもやってた関係で、女子高に通ってた子の割には結構交流が広かった方だと思う。でも、男の子との付き合いって、中学校でも、高校でもまるっきり無かったの。もっとも、高校2年でその彼と会うまでだけどね・・。両親は、海外生活をしてたこともあって、恋愛に関しては割りとリベラルだったと思う。だから問題は両親じゃなかったのよ。私の行ってた学校は男女交際に異常に厳しくって、男の人と付き合うなんてことはありえなかったの。少なくとも当時はね。今でもそうなのかしら・・。いまどきの女の子はそんなの耐えられないでしょうね。」

美奈子さんは、相変わらずワイングラスを両手で包み込むように持ちながらはなしていた。僕は、感想を刺し挟まずに、ただ静かにうなずきながら美奈子さんの話しを聞いていた。

「私、週末は図書館で過ごすのがすごく好きだったの。きっかけは中学3年のころ、静かに集中して勉強できるからって理由で行き始めたんだけど、殆どエスカレーター式でそんなに受験勉強しなければいけないわけじゃなかったんで、途中からは殆ど趣味でいってた。その図書館には近くに緑のいっぱいある大きな公園もあったし、図書館の建物は古くてシックで天井がとても高かった。その建物の一角には、一人一人の机がきちんと仕切られている机のある静かな自習室もあった。窓の外には公園の緑が見えて、明るくってとても素敵な自習室だったの。私は、いつもそこに行って好きな本を読んだり勉強したりしたの。だいたいいつもウォークマンを持って行って好きな音楽を聴いていたな。お弁当も自分で作っていって、お昼になると公園のお気に入りのベンチで食べてたの。中学や高校の女の子が一人でお弁当を食べるのって、実はすごく変なことなのよ。でも、私はそういう一人の時間が大好きだったの。

そんな風に図書館に通っていた頃、一人の男の子のことが気になるようになったの。その男の子は私が高校2年生になった年の4月ごろから来るようになった。私と一緒で、いつも一人で来て、音楽を聴きながら本を読んだり、ノートに何か書いたりしていた。私は、最初に彼に会ったときから何か特別なものを感じていたように思う。それまで、もう何年かその図書館には通っていたし、男の子なんていくらでもいたんだけど、そんな風に男の子に何かを感じたのは彼が初めてだったの。彼も私のことを意識してたことはわかっていたわ。別に私のことをじっと見てたりとかいうことは無かったんだけど、なんとなくそれはわかったの。たまに、はっと視線が合うことがあったけど、お互いあわてて目を伏せたりして、そんな関係だった。

私たちは、毎週日曜日図書館にいって、互いの存在を確認して、でも挨拶も交わさず、ずっと背中で相手の存在を意識し続けているような、そんな関係だった。そんな感じが2ヶ月ぐらい続いたときだったかなあ・・・。5月のある日曜日、ちょうど新緑が綺麗な今頃の季節だったと思うわ。ちょっとしたことがきっかけで、彼と私は話しをするようになったの。」

僕はもうパスタを食べ終え、皿は下げられていた。美奈子さんのリゾットは半分残されたままだったけど、もうすっかり冷え切っていた。店員がカウンター越しに、お皿を下げますかと聞いた。彼女はそうね、じゃあお願いするわといってその皿を下げてもらった。そして僕はエスプレッソを、美奈子さんはカプチーノを頼んだ。 

  •  *  *  *  *

 彼女は、ワインを少し飲んで一息ついた。暫く沈黙が流れたが、僕には美奈子さんを前にしたその沈黙を、本当にいとおしく思った。それは、確かに沈黙には違いなかったが、僕はその沈黙の中に美奈子さんとの濃厚なつながりを感じていた。美奈子さんが話している間、僕は、彼女が45歳であることをすっかり忘れていた。もちろん、最初に駅で会って、ここに歩いてくるときから、彼女はどうみても45歳にはみえなかったが、それでも落ち着いた大人の女性であることには変わりなかった。でも、女子高生のころの話しをしている彼女は、少なくとも僕から見れば、まるで女子高生そのものだった。

 ワインを飲んで、一息ついてから、美奈子さんはゆっくりと続きを話し始めた。

「その日私は寝坊したか何かで、ブランチを食べて12時少し前に図書館にいったの。12時になると、自習室の殆どの人はお昼休みに出て行った。いつもは私もそのうちの一人なんだけどね。それで、自習室に残ったのは結果的に私と彼だけになったの。彼は、いつもその日私が来たぐらいの時間に顔を出して、いつもお昼は食べに行かず、ずっと自習室にいることが多かったの。

 1時前後にぱらぱらとみんな戻って来だしたんだけど、私の隣にいた男の人も戻ってきて、自分のウォークマンが無いって騒ぎ出したの。浪人生みたいで神経質そうな雰囲気の人だった。とにかく、その人が、『君は昼休みずっとここにいたんなら、誰か来たか知ってるだろう。』みたいな感じでしつこく絡むの。そんな人誰も来なかったんだけどね。今から考えたら、そんな盗られて困るようなものを置きっぱなしにしてどこかにいくほうが悪いと思うんだけど、あの頃はまだ私も丸っきりの少女だったから、ただ困っておろおろしてたの。そしたら、彼がすっと席を立って私たちのところに来て、『僕も自習室にいましたけど、誰も来ませんでしたよ。』って切り出したの。それから、彼女が迷惑してるから絡むのはやめろみたいなことも言ったの。それで、その浪人生みたいな人は少しカチンと来たみたいでけんか腰になった。彼は、とにかく係りの人を呼びましょうって言って、一旦部屋を出て行った。そしてすぐに係りの人と戻ってきたの。」

 僕らは、カプチーノとエスプレッソを殆ど飲み終えていた。美奈子さんはデザートは要らないと言っていたので、僕は適当なタイミングで勘定を頼んでいた。ウェイトレスが伝票を持ってきたとき、美奈子さんが言った。

「私にも払わせてね。」

 僕は自分で全部払うつもりでいた。いくら年上の女性でも、誘った女性に食事代を払わすのはちょっと気が引ける。僕は、いいんですよ気にしないでと、彼女の申し出を出来るだけさりげなく断って、伝票を自分の手元に置いた。

「ねえ。私の話し。退屈じゃない?」

「いえ。むしろ、もっと話しを聞きたいです。でも、そろそろ、一旦場所を変えませんか?」

 と美奈子さんに提案した。

「そうね。じゃあ、出ましょう。」

そんな流れで美奈子さんと僕はその店を出た。勘定を済ませ、ガーデンプレイスの方に少し歩き、ショットバーに入った。その間も、彼女は途切れ途切れに話しを続けた。

「係りの人は、いかにもって感じで、『貴重品はご自分で管理していただくことになってますので。』みたいな説明をして、それでもその浪人みたいなひとが文句を言うので、遺失物の届出伝票みたいなものを書かせたの。その間、彼もその場に加わって、私も座るわけにも行かず、ずっとその横に立ってたの。騒動が一応片付くと、彼は『じゃあ。』ってだけ言って自分の席に戻っていった。私もちょっと会釈したっきりで、席に着いたの。」

 美奈子さんがそのあたりまで話した頃、僕らはショットバーで1杯目のカクテルを飲んでいた。僕はドライマティーニで、美奈子さんはジントニックだった。ジントニックを頼むときに、美奈子さんが「ジンはボンベイ・サファイアで。」とウエイターに聞いていたのが妙に印象的だった。

「それでね。結局その日ですら私は彼とまともに言葉を交わさなかったのよ。信じられる?でも、10代って、少なくとも私にとってはそんな時代だったの。」

 美奈子さんは僕の目をまっすぐに覗き込みながらそういった。

「わかりますよ。僕なんか、その彼よりもっとぶっきらぼうなほうだったろうし。自分から女の子に声を掛けるなんて絶対無かった。」

 僕はそう答えた。手に持ったまま灰皿の上に置いてある僕のタバコから、煙がゆっくり上がり複雑な曲線の白い帯を描いていた。

「そうかもしれないわね。」

 少し間をおいてから、美奈子さんはそう言った。

「その日の帰り道、ずっと、私は彼のことを考えていたの。でも、どきどきするとか、恋の予感とか、全然そんなんじゃなかったの。そりゃ、存在は気にはなっていたけど、その時は、『ああいう風にお世話になったときって、どういう風にお礼を言えばいいんだろう。』ってそんな馬鹿なことを一生懸命考えてたのよ。」

「馬鹿だなんて、そんなことありませんよ。」

僕はそういった。彼女はジントニックを飲んで、外の夜景に目を向け一息ついている風だった。

「それで、その次に美奈子さんとその彼が出会ったときから、恋の話しが始まる。そういうことですね。」

 僕は、タバコを口元に当てたまま美奈子さんにそう聞いた。

「そう。少女漫画みたいなお決まりのコースでね。」

 美奈子さんはは僕のほうに視線を戻し、そう言った。美奈子さんがそう言ったとき、彼女は何故か少し寂しそうに微笑んでいるように見えた。

  •  *  *  *  *

「その事件があった次の週の日曜日、なんだか私は気分が乗らなくて、勉強がいまいち手につかなかったんで、お昼前に一度公園に散歩に出たの。その公園は少し小高い丘になっていて、見晴らしのいい場所に大きなクスノキがあって、その木陰に丘の下を見下ろせる私のお気に入りのベンチがあったの。その時もそこで休もうと思って、その近くまで来たときに彼にあったの。彼は、『やあ。』とか『ああ。』みたいな短い挨拶をした。

私は、

『この間はどうも、ありがとう。あなたが助けてくれなかったら結構厄介なことになってくれたと思う。』

ってお礼を言ったの。彼は、相変わらず、『うん。』だか『ふん。』だか良く分からないような、相変わらず愛想の無い短い返事をしてた。それで、私、そのまま頭を下げて図書館に戻ろうと思ったんだけど、ふと思い出して彼に言ったの。

『あの、そういえば、あの日ウオークマンが無いって騒いでた人、実は自分でお昼ご飯のとき食堂に持っていって、その後おトイレで手を洗ったときに自分で置き忘れてたらしいんです。係りの人が私たちの所に来ていろいろやってた頃には、図書館の窓口の方に、もう落し物として届いていたみたい。でも、その時はまだ落し物を受け取った人がちゃんと登録してなかったんで、翌日みんな気がついたんだって。今朝、私が入館するときにあの日の係りの人とたまたま会ってそんなこと教えてくれたの。とんだ人騒がせでしたねって。』

彼は私がそう説明するのを黙って聞いていたの。そして、

『ねえ、もし良かったらそこのベンチに座って話そうよ。』

って言ったの。」

そこまで話すと、美奈子さんは一息ついてジントニックを飲んだ。

「とんだ人騒がせなキューピットでしたね。」

 僕は言った。

「ねえ。 私だったら恥ずかしくって死んじゃうわ。でも、その人があんなおっちょこちょいなことしなかったら、私と彼の関係はなかったかもしれない。今から思えば、むしろ感謝すべきだったわね。その浪人さんに。」

美奈子さんは楽しそうにそう言った。その瞬間は今現在の美奈子さんに戻っていた。

「『浪人さん』って・・・決め付けてるし。」

僕はそういって笑った。

暫く沈黙が流れた後、僕が続けた。

「それで、いよいよ本題の彼との話し。続きを聞かせてもらえますか?」

「そうね。」

彼女はそういってからも、暫く何かを考えているようだった。僕のタバコの煙が、相変わらず不規則な形の細い糸のように美奈子さんと僕の前を漂っていた。

「結局、その日は二人でそのベンチに座ったまま、気がついたら夕方近くまで話してたの。どういう風に話し始めたかはあまりはっきり覚えてないわ。でも、気がついたら、私たちは随分沢山のことを話していた。そして、二人の間には驚くほど共通点があることを知ったの。彼も私と一緒で帰国子女だった。彼が住んでいたのはアメリカのサンディエゴで、小学校の4年生から中2までそこにいたの。彼は私と一緒で本を読むのが好きで、好きな作家も大体一緒だった。そしてJazzが好きでBil EvansとStan Getzが好きだった。そんなものが好きな高校生なんて滅多にいないから、私たちはそれだけで夢中になって話しが出来たの。

お昼ごはんは、私のお弁当だったサンドイッチを二人で分けて食べたの。私だけ一旦図書館に荷物とお弁当を取りに帰って、またそのベンチに戻ってきてから二人でお昼ご飯にしたの。その後もずっと話しをしてたんだけど、夕方、私の方から、『もうそろそろ返らなくっちゃ。』って言って分かれたの。彼は、別れ際に『電話してもいいかな?』って聞いた。そして二人で電話番号を交換したの。

その次の週から、私たちは会うようになった。最初にもはなしたみたいに、私の学校って、恐ろしいほど男女交際に厳しいかったから、どこで会えばばれないか、二人で必死に考えたのよ。その頃、私の家は鎌倉にあって、彼は藤沢に住んでいた。だから二人が出会った図書館なんかは絶対ダメだった。同級生や先生や、いつどんな知り合いにあるか分からなかったもの。それで、私たちは、わざわざ電車に乗って文京区にある図書館まで行って、そこで会うことにしたの。そんな遠くまで行ってまた図書館っていうのが今考えるとおかしいけど、電車代だけで結構なお金を使っちゃうんで、映画や遊園地に行くお金も無かったのよ。

お昼ご飯だって私が作ったお弁当を分けて食べたの。でもまさか、私のと彼のと二つ分作るわけには行かないから、一人分の体裁のお弁当を少し多めに作って持っていったの。お母さんとかはそれを見て、『あなたそんなに食べたら太るわよ。』なんてあきれてたけどね。もちろん、高校生の男の子だった彼が、そんな程度のご飯じゃ足りる分けなくて、いつも追加でパンか何かを買って二人で食べたの。飲み物はいつも缶コーヒーで、パンもコーヒーも彼が買ってくれてた。

図書館に行くっていっても、そこは待ち合わせの場所みたいなもので、二人で過ごす時間は、どこかの公園だったり、街の中をあてどなく散歩したりとか、そうやって過ごす方がずっと多かった。市ヶ谷や千駄ヶ谷のあたりとか、千鳥が淵とか。当時の私たちの年齢なら、原宿が定番だったんだけど、そこには絶対行かなかった。誰か知り合いに会ってもいけないと思って。」

僕は、ふと腕時計に目をやった。既にその段階で時間は10時半を過ぎていた。もちろん退屈していたわけじゃない。次のことをどうしようか、そう思って時計をちらっと見ただけだった。僕は出来るだけさりげなくやったつもりだったが、美奈子さんはそれに気づいて、はっと、2007年5月の現実社会に戻ってきたようだった。

「ごめんなさい。なんだかすっかり話し込んじゃったわね。ねえ・・・・、どうしてかしら。別れたその彼との話し、どうしてこんなに細かいところまで覚えていたのか、自分でもびっくりしてるのよ。それに、どうしてそれを会ったばかりのずっと年下の男の人にこんな風に話しているのかも・・・。」

美奈子さんの感情が微妙に振動し始めていることが僕には分かった。

「ねえ、美奈子さん。すごく不思議な話しなんだけど、僕は、美奈子さんがそうやって彼との話しをしていること、僕にはすごく自然に受け取れるんです。今日はまさにこのために美奈子さんに会いに来た。何故だか分からないけどそう思えるんです。」

美奈子さんは、そういっている僕を黒い大きな瞳で見つめていた。少し潤んだその瞳は、何か特別な時間と空間を見ているような不思議な寂しさがあった。

「少し夜風に当たりながら話しをしませんか?」

僕はそういって、美奈子さんの横に立ち、その脇に手を添えて彼女を立たせた。美奈子さんの身体には、なんだか漂うような雰囲気があって、不思議な感覚だった。彼女の心と身体のもう半分は、二十数年前の時間と空間に行ってしまっているような、そんな印象を受けた。

僕らは、バーを出て、夜風に吹かれながら暫く外を歩いた。途中、僕はコンビニに寄って、暖かい缶コーヒーを二つ買った。そして、あまり人通りのなさそうな辺りにある緑地帯のベンチを見つけてそこに美奈子さんを座らせ、缶コーヒーを手渡した。

「ありがどう。」

ささやくような、かすれた声で美奈子さんは行った。彼女は店を出てから一言もしゃべってなかった。僕は、自分の上着を脱いで美奈子さんの肩にかけ、その隣に座った。彼女がもう一度話し始めるまで、そうやってずっと待ってるつもりでいた。

 *  *  *  *  *

 美奈子さんは随分長い間黙っていた。その間、彼女の心は二十数年前と、現在の間を覚束ない足取りで行ったり来たりしているように僕には思えた。僕は、そんな美奈子さんをいとおしく思い、いつしか彼女の肩に手を回してた。それを機に、美奈子さんの頭が、コクンと僕の右肩にもたれかかってきた。そして、彼女の右の手のひらが、肩にまわされた僕の手の上に添えられた。何かのぬくもりを確かめようとしているような、そんな手の添え方だった。

美奈子さんは、少しづつ、途切れ途切れに続きを話し始めた。彼とデートを始めて数ヵ月後の8月、隅田川で花火大会を見た後ファーストキスをしたこと。受験生になった翌年には、少し会う回数が減ったこと。その年の春休みにラブホテルで最初のセックスをしたこと。彼は東京の有名私立大学の政経部に、彼女は東京の私立の有名女子大に入ったこと。それで漸く人目を気にしないデートが出来るようになったこと。

美奈子さんは、高校2年生から大学を出るまで、青春の一番の盛りを、その彼と過ごした。彼のことを語ることは、美奈子さんの青春そのものを語ることだった。

「もともと海外に住んでいたことのある彼は、社会人になったら海外に出て仕事をしたいっていう夢を持ってたの。いつかそうなるんだっていつも言ってた。高校2年のころからずっと。

大学に入ってからは、一生懸命バイトしてお金を溜めて、毎年夏には長い旅に出てた。インドにいってたこともあったし、トルコからポルトガルまで、ヨーロッパを西へ西へと移動してたこともあったわ。でも一番長かった旅は、彼が元住んでいたサンディエゴから、ずっと陸路でアルゼンチンまで行ったときだったかな。彼はいつも、1週間に1度ぐらいのペースで、旅先から彼の一番気に入った絵葉書に近況を書いて、私に送ってくれていたの。だから、長い間彼に会えなくても、私はちっとも寂しくなかった。私は、もらった絵葉書を壁に並べて張っていたけど、新しい絵葉書が増えるたびに、私自身がその土地を訪れたような楽しい気分になったの。」

美奈子さんは僕の肩に首を持たれかけたまま、静かな調子でそう話し続けた。

「大学4年生になって、私たちは就職活動を始めた。彼は海外で働きたいってう夢をかなえて、途上国に融資をしたりする銀行に内定をもらったの。私は、父のコネでやっぱり銀行の内定をもらった。海外は全く関係のない仕事だったけど。

二人とも、大学の卒業資格を無事とって、春休みには初めて二人で旅行に行ったの。行き先は函館、小樽、札幌だった。二人とも、親には同姓の友人との卒業旅行だって嘘をついて出かけてたから、旅行中ずっとどきどきしてた。函館の朝市に行ったり、小樽の運河をみたり、札幌でスキーをしてラーメンを食べたりした。とっても楽しい旅行だったわ。その旅行の最後の夜、彼にプロポーズされたの。社会人になって1年経ったら結婚しようって。」

そこまで話した後で、美奈子さんは、また長い沈黙の中に入っていった。僕の右手に添えられてた彼女の右手は、左手と一緒に膝の上に乗せられ、きゅっと小さく握り締められていた。僕は、美奈子さんの肩にまわしていた手を下ろして、彼女の膝の上にある左手を握った。

時間はもう12時近くになっていた。もうあたりを歩く人の人影もなくなって、あたりはすっかり静まり返っていた。

「私は・・・・びっくりした。もちろん彼のことは愛していたし、はっきりとそう認識していたわけではないけど、自然な流れとして、いつか彼と結婚するということは当然思っていたと思う。でも、私たちは、まだ22歳にもなっていなくて、これから社会人1年生になろうっていうときで、そんなときに結婚っていわれても、なんだかぴんと来なかったの。

返事は待つよって彼は言ってくれた。でも、結局返事をしないまま別れることになってしまったの。」

再び沈黙が訪れた。いや、正確に言うと、声を殺して美奈子さんがすすり泣く声だけが聞こえた。12時過ぎの静寂の中でも、殆ど聞こえるか聞こえないか程度の、静かな静かな音で、美奈子さんは暫く泣いていた。それまでのどの沈黙よりも長い時が過ぎた後、美奈子さんは彼とのストーリーの最後の部分を話しを始めた。

「どうしてだか分からないけど、そのプロポーズを境に私たちはすれ違うようになってしまったの。私は、はっきりした答えを彼に出さなきゃいけないと思って随分苦しんだ。でもどうしても答えを出せなかったの。YesでもNoでもないの。今はまだ答えを出せるときじゃない、きっとそれがその時の私の答えだったのね。今はそれが分かるわ。でも、その頃はまだ私も若くて、そんな風に冷静に物事を捉えることができなかったの、ただ動揺して、あせっていた。彼も、そんな私を見て、動揺して、あせってた。

その年は、5月ごろから天気の悪い日が多くて、8月になるまで梅雨が明けなかった。私たちは、いつも雨や霧の中でデートしていたように思う。彼が運転する車の助手席に座って、二人ともただワイパーの音を聞いていたこと。霧の立ち込めた山下公園で私が泣いて、彼が優しく抱きしめてくれたこと。どれも、ひんやりした雨天の空気みたいな感覚として、今でもありありと思い出すことが出来るわ。」

美奈子さんは、ずっと視線を伏せたまま話しを続けた。

「夏になる頃には、彼も私も、二人はもうだめだってことが分かっていた。そして、8月のある日曜日、彼から電話がかかってきたの。今日の夕方6時に、あの図書館の丘の上のクスノキの下のベンチに来て欲しいって。そう、私たちが高校2年生の時に始めてあった場所に。私は、彼がそこでお別れを言うつもりだってわかった。私は、その日はどこにもいかずにずっと家にいて。約束の時間の1時間前にその場所に着くようにお家を出たの。少しだけお化粧をして。」 

 *  *  *  *  *

「私は、西日のさす公園を通って、そのベンチまで歩いていったの。その日は、昼前まで雨が降っていたけど、夕暮れの頃には日がさすようになってた。青空に雨雲の切れ端のような灰色の雲が途切れ途切れに浮かんでた光景を、今でもはっきり覚えてるわ。ベンチに着いたとき、彼はまだ来てなかった。私は、まだ少し濡れていたベンチをハンカチで拭いて、そこに座っていたの。考えてみれば、そのベンチに来たのは、高校二年の5月に私たちが始めて一緒の時間を過ごして以来だった。

彼は、暫く経ってから、そのベンチのところに現れたの。何も言わずに、私の隣に座った。そして、私たちは、何も言葉も交わさないまま、ずっとそこに並んで座っていたの。夕日の色が、オレンジ色からだんだん赤くなっていって、青空に浮かんだ雨雲の切れ端が、綺麗な赤紫に染まって行くのを、ただ、黙って見てたの。

あたりが薄暗くなって、人の顔が見えにくくなる頃になって、彼がぽつりといったの。

『花火を・・・持ってきたんだ。』  って。

でもそれは、たった一袋の線香花火だった。細い藁に火薬のついた線香花火が、ほんの10本ほど入ってるだけの小さな袋だった。彼は、ポケットからその袋を出して、線香花火をひとつ、私に持たせたの。そして、ライターで火をつけた。ぱちぱちぱちと、小さな小さな音を立てて、火花が散った。私は、その火花を、静かに見つめてた。

そんな風にして、お互い何も話さないまま、二人で線香花火を見ていた。そして、彼は、最後の1本を私に持たせて火をつけたの。その花火が燃えていたのは、ほんの1~2分だったんでしょうけど、私には、そしてきっと彼にも、私たちが一緒に過ごした時間と同じぐらい、長く思えた。

その花火が終わる頃には、あたりはもうすっかり暗くなっていたの。最後の線香花火が燃え尽きてからも暫く、私たちは黙ったままだった。私はしゃがんだままの姿勢で、彼もその前に立ったままだった。

そして、『タクシーをひろってあげるよ。』って、彼はそう言ったの。

『ん・・・。』私はそう返事をした。私たちは、何も言葉を交わさないまま、水銀灯に照らされた公園を抜けて通りの方まで歩いたの。

通りに来て、暫く待っていると、一台のタクシーが来たので、彼は手を上げてそれを止めたの。タクシーは、扉を開けて私たちが乗るのを待っていた。私たちは、向かい合ったまま歩道にたっていた。タクシーのハザードランプが、彼と、私の顔をオレンジに照らし出していた。

『さよなら。』

彼は、そういって、私にタクシーに乗るように促したの。

暫くの間、私はそのままそこに立ち尽くしていたんだと思う。そして、暫く経った後で、タクシーに乗ったの。パタンという音とともに扉が閉まって、タクシーは走り出した。走り出して暫く経ってから、突然、私の目から涙が溢れたの。とめどなく、とめどなく。途中から、私は声を出して泣いた・・・。」

あたりはもうすっかり夜更けで、夜風も随分冷たくなっていた。僕は、僕がかけてあげたジャケットを羽織ったままの美奈子さんの肩に回した手で、ポンポンと、彼女の右肩を静かにたたいていた。

しばしの沈黙が流れた。それが、その日の美奈子さんとの話しの最後の沈黙だった。

「ごめんなさい。初めて会った人にこんなこと話すなんて、どうかしてるわね・・・・。別に私は、そのことを後悔しているわけではないの。あの頃に戻りたいとも思ってない。その後の人生も、私なりに一生懸命生きてきたと思う。ただ・・・。ただね・・・。思い出しただけ・・・。それだけ。そして、その話しを、誰かに、いいえ、きっとあなたに、あなたに聞いて欲しかった。それだけなの。」

彼女はそういうと、静かに立ち上がって、座ったままの僕のほうに向かって言った。

「ありがとう。今日は楽しかったわ。」

僕は黙ってベンチを立って、二人ともだまったまま駅のほうに向かって歩き出した。時刻はもう12時半を回っていた。

「通りに出たら、タクシーを拾いますね。」

さっきの彼女の話しと同じだと思いながらも、実際、それしか方法は無かった。僕は、恵比寿駅に向かう道のどこかでタクシーを拾い、彼女をそれに乗せるつもりでいた。

僕たちは、スカイウオークを通らずに、地上を歩いて駅のほうに向かおうとした。でも、最初の通りに出てすぐに流しのタクシーが通りかかったので、僕は手を上げてそれを止めた。タクシーは扉を開け、ハザードランプをつけた。

僕らは、歩道で向かい合ったまま、さよならを言おうとした。

「ありがとう。今日は楽しかったわ。」

美奈子さんはさっきとおんなじことをいった。泣きはらした大きな潤んだ目で、僕を見上げていた。その横顔がタクシーのハザードランプで、ネガのように照らし出されていた。

気がつくと、僕は美奈子さんを抱きしめ、美奈子さんは僕の胸に飛び込み僕の胸に顔をうずめていた。僕らは、暫くの間、タクシーのハザードランプに照らされながら、そうやって抱き合っていた。

そうして、僕らは二人でタクシーに乗った。

「新宿方面に」

美奈子さんが運転手にそういって、タクシーは静かに走り出した。

 *  *  *  *  *

新宿には美奈子さんのお父さんが会員になっているホテルがあって、終電もないのでそこに泊まるつもりなのだと美奈子さんは言った。中央線で帰る僕も、新宿ならちょうど路線上だ。朝までどこかで時間を潰して、電車が動き出したらそれに乗って帰ればいい。

タクシーで新宿に向かう間、僕はずっと美奈子さんの左手を握っていた。夜中の1時近い街はさすがに車通りも少なく、黄色い点滅信号の中をタクシーは進んだ。

「その日、家に帰ってベッドに入ってからも、私はずっと泣いていたの。手を洗ったはずなのに、手には花火の匂いがついていて、その匂いを嗅いでは涙を流していたの。」

美奈子さんは、窓の外を見つめたまま、そう話し出した。僕は黙ったままで美奈子さんの話しを聞いていた。

「ねえ・・・。さっき、タクシーを止めたときに、オレンジ色の停車のランプが点滅していたでしょう。あのランプって、蛍を呼び寄せるのよ。」

美奈子さんが急にそんな話しを始めたので、僕は彼女の顔を覗き込んだ。

「蛍?」

「そう。蛍。」

 美奈子さんはそう言った後、一呼吸置いた。

「あれは、もう私たちの関係がすっかりおかしくなっていた6月の終わりごろだったんじゃないかと思う。ある日曜日、私たちは丹沢の方にドライブに行ったの。その日もやはり天気が悪くて、霧のような雨が降ったり止んだりして、丹沢の山の中はずっと濃い霧に覆われていたの。

 もう殆ど暗くなりかけた頃、私たちは、山中の川沿いの道を走っていたの。小さな道で、車通りは殆どなかった。その日、私たちはあまり言葉を交わさなかったけど、ちょうどその辺りを走っていたころにちょっとした喧嘩になったの。きっと、私が、彼のプロポーズにちゃんとした返事を出さないくせに、何か未練がましいことをいったんだと思う。彼は、少し怒って、黙って車を道の脇に止めたの。彼は、何も言わず、哀しみか怒りと一人で戦ってるようだった。私は、その頃いつもそうだったように、その時もただはらはらと涙を流し続けていた。彼が、黙ったまま私を抱き寄せ、私たちは暫くそのままの姿勢でいたの。

 私たちは椅子を倒し、ずっと抱き合ったままでいた。暫くしてから、私が車のフロントガラス越しにふと上を見上げると、車の上に張り出した木の枝に、星のような輝きがひとつ見えたの。

『蛍・・・?』

 私は思わずそうつぶやいたの。そしたら、彼が、その光のまたたきを見て、『外に出よう。』っていったの。

 私たちは車の外に出た。もう雨は上がっていて、雲の切れ間から殆ど紫色になりかけた空が所々に見えていて、道路の脇の暗がりから沢山降った雨を集めて轟々と流れる川の音が聞こえてた。あたりのアスファルトも草も木も、その日降った雨にすっかり濡れそぼっていた。

ふたりでさっきの光のまたたきを探してみたら、やっぱりそれは蛍だったの。綺麗な黄緑色の光だった。そしたら彼が、突然運転席の扉を開けて車の停車ランプをつけたの。彼は、車の停車ランプに蛍が集まるって何かの本で読んだって、そういってた。すっかり暗くなったあたりの風景が、オレンジ色に浮かび上がっては消えた。

 暫くすると、さっき蛍を見つけた枝に、ひとつ、またひとつと蛍の光がともって、気がつくとその木の枝いっぱいに蛍の光が瞬きだしたの。まるでクリスマスツリーみたいで、でもその光は人口のランプよりずっとずっと綺麗で、まるで息を呑むように美しい光景だった。そして、車の脇の草むらからも蛍が沢山出てきて、車のボンネットの上や、フロントガラスにとまった。その日、私は白いスカートを履いていたんだけど、そのスカートにも何匹かの蛍がとまってた。私達は、さっきまでのトラブルも忘れて、その素晴らしい光景に見とれ、いつのまにか二人で笑いあってたの・・・。」

僕らはもう新宿の街に入りつつあった。僕らの乗ったタクシーは幹線道路を降り、スピードを落として、何度か角を曲がった。

「もう、ホテルに着くわね。」

 窓の外を見ながら美奈子さんが言った。

「本当にすっかり長い話になっちゃったわね。でも、もう本当にこれでおしまいよ。」

美奈子さんは僕のほうを見てそう言った。僕は黙って頷いた。

「その彼と別れてから3年後の秋に、私は親の勧めでお見合いして結婚したの。それが今の主人。私は27歳の時に妊娠したけど、あることがきっかけで流産してしまった。それ以来、赤ちゃんのことはあきらめなければいけなくなった。」

 美奈子さんがそこまで話したところで、タクシーはホテルに着いた。結婚後の美奈子さんについて、彼女が語ったのはそれだけだった。

 美奈子さんをホテルに送り届けた後、僕は新宿の繁華街へ向かった。がさがさしてあまり好きではない街だけど、適当な場所を見つけて夜明けまでの数時間を過ごした。

 その日美奈子さんと過ごした数時間は、ても不思議で、特別な時間だった。果たして美奈子さんは、今でもこの世界のどこかに実在するのだろうか。あの日、恵比寿で美奈子さんと会ってから新宿で別れるまで、僕はもう一つの別の世界に行っていたような、そんな気もしている。


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