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フリーダの痛み


 フリーダ・カーロというメキシコ人女流画家を主人公にした映画(題名「フリーダ」)が数年前に公開され結構話題になった。女性を中心に世界的にファンが多いようであり、メキシコ・シティにある彼女ゆかりの美術館には多くの観光客が訪れ、彼女の肖像や作品をモチーフにした民芸品も数多く売られている。フリーダはメキシコ女性の一つの典型とされているが、いろんな意味でメキシコという国を象徴する存在といえるであろう。  彼女の人生は、肉体的苦痛に貫き通されている。9歳でポリオにかかり右足が不自由になり、18歳の時、帰宅途中にバス事故に遭い、全身骨折、鉄パイプによる子宮貫通等、瀕死の重傷を負う。以後、47歳で死ぬまで、痛みが彼女の身体を去ることはなかった。件(くだん)の映画の中でも「痛みのない身体がどんなものだったか忘れたわ。」という台詞がある。フリーダ・カーロ美術館にいくと、彼女のギブスや車椅子、寝ながら絵を描いたベッド等が展示してあり、彼女の苦闘を窺わせる。彼女の作品には、肉体的苦痛を描いたものや、血や心臓などをモチーフにしたものが多い。男性的な描写の自画像も印象的である。  なぜ、彼女の人生や彼女の作品が、メキシコ人の心にそれほどまでに訴えるのか、自分はそこに「痛み」というキーワードの存在を感じる。メキシコ人たちは、彼女の痛みに心のずっと深いところで共感しているように思える。別の言い方をすれば、彼女の作品は、痛みというものを通して、メキシコの民族の記憶のずっとずっと深いところにある何かに訴えかける力を持っているということかもしれない。或いはそれは、マヤ・アステカの時代から存在し、人々の気づかない心の奥底の部分で脈々と受け継がれてきたものかもしれないし、スペイン人の到来直後の殺戮と略奪の過酷な経験の中で、彼らの遺伝子に刻み込まれていった何かかもしれない。

 メキシコで暮らしていると、肉体や血や骨というものについての彼らの受け止め方が、我々日本人とはかなり違うという印象を持つことが多々ある。恐らく世界的に見てもかなりユニークな感性ではないかと思う。  まず、この国を訪れた外国人は、骸骨をモチーフにした民芸品や芸術品が大変多いことに驚かされる。欧米のハロウィーンと同じ時期にある「死者の日」には、街中はそれこそ骸骨だらけになる。死者の日のコンセプトは日本のお盆と全く同じ。家に死者の霊を向かえ、やがて送り返す。その死者を迎えるオフレンダと呼ばれる祭壇には、様々な色の花びらとともに、頭骸骨型の砂糖菓子が飾られる。我が会社のオフィスにも毎年オフレンダが設けられるが、ある年は、亡くなられた元社員の遺影とともに、現役社員全員分の骸骨菓子が並べられ、ご丁寧にその一つ一つに各社員の名前が書いてあった。或いはそういう習わしなのかもしれないが、これにはさすがにぎょっとした。  ある時、仕事で地元の大病院に行くことがあったが、そこの病棟間の連絡通路の壁面一面いっぱいに、内臓や神経系、骨格をモチーフにした抽象画が描いてあった。一種の壁画である。色も、赤と青がベースで血を連想させるものだった。また、同じ病院の外科医の診察室にも、同じような抽象画が飾ってあった。日本の感覚では、普通、病院にはこんなものは飾らないだろう。  またある時、家の近くにある公園に子供を遊ばせに行ったら、赤十字がキャンペーンのようなものをやっていた。救急介護に貢献しているというアピールなんだろうと思うが、公園の中に車を止め、そのボンネットの上に跳ねられた人間に見立てたマネキンが乗せられていた。頭がバンパー側なって半逆さ吊りの状態であり、手足がねじ曲がっている。さらに服の一部が破かれていて、肉片が飛び出たようなディーテルまで施されている。そこからべっとりと赤いインクをたらし、それがボンネットの端まで垂れている。このデモンストレーションが白昼の公園にいきなり置いてあるのである。そしてその横で、お姉さんが「キャンペーンやってまーす!」みたいな調子でビラを配っていた。こんな光景はさすがにメキシコでもこの時以外見たことが無いが、いずれにしても、この感性にはかなりのカルチャーギャップを感じざるを得ない。  やや強引かもしれないが、この一連の感性と、フリーダの痛みの間には、何かの関連性があるように自分は思うのである。


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